LC分析の留意点
田中 一彦 先生
広島大学大学院国際協力研究科 開発科学専攻開発技術講座 教授 (ご所属・役職は2010年10月発行時)
■Dow Chemical Co. (以下,Dow)のSmallらによって開発されたサプレッサー型のイオンクロマトグラフィー(IC)*は,これまでに国内外の公定分析法に数多く採用される等,実用的な水質モニタリング法としてその有用性が高く評価されている。 現在のIC は,その分離システムの特徴から以下の二つに大別される。
■このサプレッサー型ICは,米国を中心に世界的に適応されているイオン交換分離に溶離液サプレッション技術を導入したICシステムである[Anal.Chem.,47,1801(1975)]。 一方,Iowa州立大学のFritzらにより開発されたノンサプレッサー型ICは,イオン交換に加えてイオン排除,吸着/分配,静電作用等に基づくICにも適応できる多用途型の分離システムであるが[Anal.Chem.,52,1519(1980)],従来よりわが国の大学・研究所や島津を含む分析機器メーカー等により独自のICに関する技術開発が進められてきた経緯もあり,今後の発展と適応拡大が期待できるICの一つである。
■そこで,ここでは,著者のこれまでのIC全般の分離科学と環境への応用に係わる研究・教育の経験を踏まえ,今後のICの方向性,特にイオン交換以外の分離機構(温故知新的分離法)を用いるノンサプレッサー型ICについて最近思うことを述べてみたい。
■1970年代は,様々な環境問題,特に先進国における産業排水の水質汚濁問題が顕在化し,その水質管理を可能にする水質モニターの開発が環境政策及び環境技術の両面から強く要請されていた時代でもあった。 そこで,Dowの研究グループは,それまでのイオン交換樹脂の製造・分離技術を生かし,様々なイオン性水質汚濁成分のイオン交換とサプレッサー技術を生かしたICを開発し,1975年に「イオンクロマトグラフTM」として実用化した。
■同様に,わが国でも通商産業省工業技術院(現在の産業技術総合研究所)による様々な環境計測法の開発研究の中で,筆者が所属した研究グループは,水溶離液と陽イオン交換樹脂分離カラムを各々用いてイオン性物質から非イオン性物質を分離する「陰イオンのイオン排除型IC」をサプレッサー型ICに先立って開発し[分化, 24,235(1975)],これにはDowによるイオン排除分離技術が導入された[Ind.Eng.Chem.,45,1812(1953)]。 このノンサプレッサー型ICは,その後のFritzらとのICの分離科学に係わる国際共同研究を通じて,1本の弱酸性陽イオン交換樹脂分離カラムと1種類の弱酸溶離液を用いる簡便な陰及び陽イオンの同時分離計測を可能にする多機能分離型の「イオン排除/陽イオン交換型IC」の開発に繋がった[J.Chromatogr.A,671,239(1994)]。
■一方,Dowはイオン排除とは逆に,非イオン性物質からイオン性物質を分離する「イオン遅延型IC」を開発した[Ind.Eng.Chem.,49,1812(1957)]。 この分離法は,近年注目されている「親水性相互作用クロマトグラフィー:HILIC」と類似の分離システムであると同時に,図に示すように,水溶離液を用いてイオン対に対する両性イオン交換体の有する静電的相互作用を利用した「陰及び陽イオンの静電型IC」としても有用であり,今後の発展が期待される古典的かつ最新のICでもある[分化, 58,311(2009)]。このような簡便で低コストかつ安全な次世代型の「水」溶離液を用いるICが国内外の様々な分野で適応されるためには,イオン排除型や静電型のICの分離科学や実用化に向けた応用研究の更なる推進が望まれる。
■このように,1950年代に開発されたイオン交換樹脂の有する多機能分離機構を活用した分離技術の導入は,今後のICの更なる発展にとって有用であり,正に「温故知新」ともいえるものである。
■近年におけるコンピューター技術の発展と相俟って,IC を含む分離分析機器の発展は目覚しいものがある。 しかしその反面,分離カラム内で生じる様々な物理・化学反応プロセスが「ブラックボックス化」し,そのことを意識しない(意識できない)学生,研究者,技術者等のユーザーが増加していることをしばしば耳にする。 このような「分離分析機器」の発展が今後のユーザーの「分離分析危機」を引き起こさないためにも,この半世紀以上も前の「温故知新」的な分離技術を理解する教育・研修等が不可欠であり,このような取り組みが今後のIC の更なる発展に繋がるものと思っている。
*ここでは,IC はイオンの分離計測を目的とした液体クロマトグラフィーとして定義される。