執筆者紹介

vol.111 クロマトグラフィーに美しさを求めて

板橋 豊 先生

公益財団法人日本食品油脂検査協会 (ご所属・役職は2020年4月発行時)

1975年北海道大学水産学部水産化学科卒業,1980年北海道大学大学院水産学研究科博士課程修了,1980年~1981年日本学術振興会奨励研究員,1981年~1991年北海道大学助手(水産学部),1991年~1999年北海道大学助教授(水産学部),1999年~2013年北海道大学教授(水産学部,水産科学研究科,水産科学研究院),2013年~2015年北海道大学特任教授(水産科学研究院),2018年公益財団法人日本食品油脂検査協会理事長,北海道大学名誉教授

【専門分野】油脂化学,分析化学
【将来の夢】とりあえず元気であること
【趣  味】絵画,花,オペラ,テレビ,盆踊り,猫,お酒(いずれも見るだけ,聴くだけ,飲むだけ)

●はじめに -油脂との出会い-

大学の卒論研究で魚油化学を探求する研究室を選んだのが筆者と油脂(脂質)との最初の出会いでした。魚の油に特別関心があったわけではなく(EPA やDHA がヒトの健康維持に有益なことが分かる前の時代でしたので),希望者が少なく入りやすかったことと物理化学的な実験やフィールドワークよりも研究室での有機化学的な実験の方が自身に向いていると思ったのが理由でした。こうして,一番不人気だった研究室を競争倍率0.6くらいで選んだことが,結果としてその後の研究人生を決めることになりました。名前からして魚臭そうな研究室で魚油(高度に精製した魚油は無臭です)と有機溶剤臭のコラボの中で始まった卒論研究は,その後,扱った試料は鯨から微生物まで広がり,また分離分析機器もガスクロ(GC)から始まって,液クロ(HPLC),マス(MS),そして最後はキャピラリー電気泳動装置まで揃えて大学を退職したのが数年前でした。その後も油には縁があって現在に至っています。皆さんは,魚油化学なんて化学があるのかと思われるかもしれません。私自身もそう思いながら,栄養学的には重要な分野であっても基礎化学としては有機化学のごく一部,地味な学問と思いながら魚油や他の水産生物の油を扱ってきました。ところが数年前,新聞に,1958年のノーベル化学賞の選考で油脂化学を専門とした外山修之名古屋大学名誉教授が「海産動物油の研究」で候補になっていたという記事が出て驚きました。残念ながら外山先生は受賞には至りませんでしたが,50年経って開示された選考資料は,油脂化学関係者とりわけ現役の研究者を元気づけた嬉しい話題でした。

●液クロがやってきた

院生になったとき,名古屋大学工学部から外山先生の弟子である高木徹先生が赴任されて指導を受けることになりました。研究室にあった主なクロマト機器はGCだけでしたので,その中の「Shimadzu GC-6AM」を使って,魚油や他の生物由来脂質の異性体分析,組成分析,新規分析法の開発を目的として本格的な研究を始めました。現在多くの分野ではGCよりもHPLCが広く使われています。油脂・脂質の分野も例外ではありませんが,それでも特に脂肪酸分析は今もGCの独壇場です。理由は複雑な脂肪酸混合物(魚油では数十成分)を他のどんな機器よりも見事に分離するためです。GC-6AM は私にとって研究の原点で出会い,ときにトラブルに見舞われながらも30年も使い続けた手放し難い機器でした。単に使ったというより使い倒した感じです。

大学院を修了する頃,液クロが研究室にやってきました。初めて目にしたHPLC装置の名は「Shimadzu-DuPont LC-1」。移動相貯槽を2つ内蔵し,GCで使用するよりも大きなエアーコンプレッサーを用いて移動相を送液するため,駆動音が非常に大きく,今でもその音が耳に残っています。UV検出器が付随していたことから,このLCを使って何か分析してみようということになって選んだサンプルが共役脂肪酸でした。共役脂肪酸は反芻動物やある種の植物種子に含まれる希少脂肪酸ですが,単一成分ではなく種々の異性体が存在します。今日では共役脂肪酸は抗腫瘍性や抗肥満性などの生物活性を有するために注目されていますが,当時はその存在は知られていたものの機能性が話題になることはほとんどありませんでした。筆者らは,LC-1とGC-6AMを使用して,それまでクロマトでの分析が難しかった共役トリエン脂肪酸(ザクロやゴーヤなどの限られた植物の種子に存在します)のシス・トランス異性体と二重結合位置異性体の分析を可能にしました(Takagi,Itabashi(1981) Lipids 16,546-551)。これがHPLCを使用した筆者の最初の研究になりました。この結果は,その後の共役脂肪酸研究の発展に繋がったと思います。

●鏡像異性体との出会い

その後,研究室のLC は更新されてLC-6Aになりました。30歳代半ば,もう一人の恩師であるトロント大学のArnis Kuksis教授から「脂質分析において未解決の課題が2つある。その1つがグリセロ脂質の鏡像異性体の分析であるが,君ならできるだろう」と言われてその気になって,鏡像異性体の分離に取り組みました。キラルHPLC分析を試行錯誤して(住友化学の大井尚文博士の開発されたキラルカラムと関連論文が大いに参考になりました),最初にモノアシルグリセロール(乳化剤や抗菌剤等として食品,医薬品,化粧品等の分野で広く利用されています)の鏡像異性体の分離に成功したときの感動は忘れられない思い出になりました。この成果は,その後のキラル脂質研究の発展に繋がりました(Itabashi,Kuksis( 2016) in Encyclopedia of Lipidomics,Springer)。キラルHPLC法により,種々の脂質成分の鏡像異性体の精密分析が可能となり,グリセロ脂質の代謝に関る酵素(リパーゼ,アシルトランスフェラーゼ等)の立体特異性の決定,糖脂質やエーテル脂質の絶対配置の決定及びトリアシルグリセロール(TAG)の立体特異分析(脂肪酸のsn-1,2,3位の決定)等が正確かつ容易に行えるようになりました。一方,TAG やホスファチジルコリン(PC)など生物における主要な脂質成分のキラル分離は未解決の課題として残されましたが,近年著しく進歩した多糖類(セルロース,アミロース)系のキラル固定相を使用することによって解決されつつあります。脂質のキラル分離は,これまで間接的に分析され推測されてきたTAGやリン脂質などの鏡像異性体の生物組織における存在の有無を直接知ることが可能であることを意味しており,今後脂質鏡像異性体の生体での分布,役割について新たな知見の得られることが期待されています。

●こだわり

似て非なるものを美しいまでに完璧に分けることにこだわって油脂成分(異性体)のクロマト分析を行ってきました。エナンチオマー(鏡像異性体)やジアステレオマーの完全な分離を達成した時のクロマトグラムをみて綺麗だと思いました。170年ほど前に,パスツールが虫メガネとピンセットを使って酒石酸アンモニウムナトリウムの光学分割を達成したことを有機化学の教科書で勉強し,ラセミ体は鏡像異性体の等量混合物であるということは頭で理解していても,実際それを自らの方法で知った時の感動は格別でした。研究生活には,いろいろな喜びがあります。論文が良いジャーナルに掲載されたとか,何か賞を頂いたとか,あるいは昇進したとか,喜びの感じ方は人それぞれだと思いますが,筆者にとっては,院生や助手だった若い時に,異性体分析の実験に没頭し,ようやく綺麗なクロマトグラムを得た時に背筋がぞくっと震えるような感動を覚えたことが一番大きな喜びでした。

●おわりに

脂質は細胞膜の基本成分として,またエネルギー源として生体において重要な役割を担っています。その特徴は,二重結合数,二重結合位置,アシル基位置などの異なる多数の異性体と同属体の混合物であり,極めて複雑な組成(Lipidome)を示すことです。このため,分析機器や分析法の発達した今日であっても,分離が困難なために生体における分布や機能の不明な成分が多数存在します。こうした問題を解決していくために,より精密な分析法の開発が常に求められています。リピドームを網羅的かつ包括的に解析するリピドミクス(lipidomics)は,プロテオーム解析を補完するものとして,近年,目覚ましい発展を遂げています。プロテオミクス研究にMSが不可欠であるように,リピドミクス研究においてもMSは主導的な役割を果たしています。しかしながら,MSで鏡像異性体を識別することは難しく,また位置異性体や幾何異性体を区別することも多くの場合困難です。クロマトグラフィーはこうした問題の解決に役立ちます。キラルHPLCとMSを併用することによって,脂質の精密な分析が可能になることが期待されます。リン脂質やTAGに特有の立体異性体や位置異性体を正確に分析することは細胞や組織で起こる生理的変化(病態等)を解析する上で,また油脂の代謝と栄養生理を考える上で不可欠であり,その手段としてクロマトグラフィーとMSは重要な役割を担っています。若い方々の努力によって,この分野が一層発展することを願っています。

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