vol.56 「時計は回る」

talkのご執筆
中村 洋 先生

2005年1月 発行
中村 洋 先生

東京理科大学 薬学部 教授

(ご所属・役職は2005年1月発行時)

本誌の編集長をされている三上博久さんからメールが入った。 LCtalkが2004年の秋で創刊20周年を迎えたので,記念に何か書けとの内容であった。 何はさておき,LCtalkの創刊20周年,誠におめでとうございます。 想い返せば,LCtalkには20年前,石田泰夫さんからの依頼であったか,私が助手の頃から一文を書かせて戴いていた{蛍光性Koshland試薬の開発とそのペプチド・蛋白質化学への応用,4号,1985}。 その後,助教授時代にも2回執筆の機会を戴いている{世紀末,されど分析化学,HPLCは黄昏に非ず,28号,1992年; HPLCの過去・現在・未来,31号,1993年}。 三上さんが執筆の参考にするようにと送ってくれたバックナンバーを見返してみると,思い切り力んで執筆している自分が当時の青っぽい顔写真と共に気恥ずかしい。

さて,私がHPLCを最初に使ったのは,アメリカの NIH(National Institues of Health)に留学(1974~1976)させて戴いた時である。 当時,私は田村善蔵先生が主宰する薬品分析化学教室に助手として勤務していたが,先輩の助手が留学を終えるのと交代に John J. Pisano博士がセクションチーフをしていた Physiological Chemistry部門で 2年間を過ごした。 この部門は,National Heart and Lung Institute(NHLI)に所属し,Building 10 の 7階に研究室があった。 当時,NIHにはNHLIも含めて30数個の研究所があり,90人ほどの日本人留学生がいた。 Dr. Pisano は,従来ガスクロマトグラフィーで分析していた PTH-アミノ酸を初めてHPLCで分析したことで知られるが,当時もテクニシャン の Carl L. Zimmerman が DuPontの830型装置を使って分離系の確立を担当していた。 この装置は,棺おけを二つ重ねたような大きさで,溶離液の交換・脱気時にはけたたましい騒音がする代物であった。 Dr. Pisano のラボにはHPLC装置がこの1台しかなかったので,なかなか使う順番が来なかったが,私は脳内に在りそうなアミノ酸,ペプチド,アミンを Whatman社の Partisil-10 SCXカラムで分離後,オルトフタルアルデヒド/2-メルカプトエタノール試薬で発蛍光検出する方法をどうにか作ることができた。 僅か2年間ではあったが,異なる文化に触れて良い経験をした。 認識を新たにしたものの一つに,職業上の区分けをはっきりさせていることがある。 私がラボでタイプを打っていたり,雑誌をコピーしていると,ボスから『ヒロ,それは秘書の仕事だからしないで欲しい。 ユーは研究に時間を使ってくれ。』という具合であった。 その通りにして秘書に託すと,10頁程度の論文が打ち上がってくるのに3週間も掛かる不具合はあったが,何でもかんでも全部自分でやっていた当時の日本と違い,システム化によって効率化を目指す社会構造が伺えた。

私が帰国した頃から,日本も含めて世界中でHPLCがブームになり,HPLCはかつて他の分析法では例を見ないスピードで分離分析法の中核にのし上がった。 この間,この分野における日本の実力は学界,産業界を問わず飛躍的に向上し,学問的にも技術的にもHPLCは成熟期を迎え,世の中に広く受け入れられるところとなった。 キャピラリー電気泳動装置の出現時には,『HPLCの命運ここに極まれり』と感じる瞬間も経験した。 今また再びMS/MSの脅威に脅かされてはいるが,HPLCは分取目的のみならず分析目的でも,何とか凌いで行ける懐の深さがあるように感じている。 現在,日本の産業界はリストラの嵐を受けて指導者不足を招き,技術の空洞化が顕著である。 言うまでもないが,文明も文化も継続されることが重要である。 液体クロマトグラフィー研究懇談会は,HPLCおよび関連技術・理論の普及に全力を傾注しているが,これは生身の人間同士の交流によって達成されるところが大きい。 「液クロ虎の巻」シリーズの出版,液体クロマトグラフィー研修会(LC-DAYs)ならびに例会の開催などをツールとして,若い方々に知識・情報の伝承を図りHPLC文化の一層の発展に努力している所以である。 ここでも,斯界のトップメーカーである島津に期待するところは大きい。

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