vol.52 「疎水性相互作用におけるH/D同位体効果」

talkのご執筆
田中 信男 先生

vol.52 2003年10月 発行
田中 信男 先生

京都工芸繊維大学 繊維学部 教授

(ご所属・役職は2003年10月発行時)

逆相クロマトグラフィー(RPLC)は,高い性能,再現性と液-液二相分配に類似した系の特徴に基づいて基礎的な研究にも使用されている。 ここでRPLC系におけるH/D同位体効果と,その疎水性相互作用発現メカニズムへの示唆について紹介させていただきたい。 RPLCにおける保持を支配する疎水性相互作用は,水の構造性や疎水性分子間の親和性などに基づいて理解されているが,同位体効果はそのメカニズムに関する情報を与える。 同位体効果(α(H/D)=k(H)/k(D))は保持係数の比に基づくので,固定相/移動相の相比の曖昧さはキャンセルされており,RPLCは疎水性相互作用に関する精密な測定に好都合な系である。

1973-4年に初めてW社の10μm粒子充填カラムを使用したときの桁違いの性能に対する驚きは忘れられない。 なぜ Benzene が Benzene-d6 より長く保持されるか,理屈が必要であった。(直感的にはC-H結合がC-Dより長いことで理解) その後,同一移動相でも溶質と固定相の構造がH/D分離に大きな差をもたらすことが明らかとなり(図1),溶質と固定相との間の親和性の寄与が示された。 C-H/C-D識別(α(H/D)=0.98~1.015, H/D1個あたり)を大きくする要素は,芳香族(固定相,溶質),大きな分子サイズ(固定相,溶質),水含有量の大きな移動相,重い原子の存在(固定相)などである。 熱力学的パラメータはエンタルピーの主たる寄与を示し,一般的にα(H/D)>1であることは,疎水性相へのC-Hのより大きな分配を示して疎水性相でC-H(D)の自由度の増大を示唆している。 アルカンなどの溶質と炭化水素系固定相との間でC-H/C-Dの保持,識別に寄与する相互作用としては分散相互作用が想定されるが,得られた結果は,これが疎水性相互作用の発現に大きな寄与をすることを意味している。(M. Turowski, et al., J. Am. Chem. Soc. In press.) とくに芳香環電子雲とC-H(D)との相互作用が想定され,現時点では,疎水性相中でC-H(D)の結合が実際に弱くなっているか(赤外吸収スペクトル波数が減少するか)が宿題となっている。

図 1 RPLCによるH/D同位体化合物の分離

図1.RPLCによるH/D同位体化合物の分離

 

移動相:70% methanol/water.固定相:C18H37, PYE (2-(1-pyrenyl)ethyl), F13C9(4,4-di(trifluoromethyl)-5,5,6,6,7,7,7-heptafluoroheptyl).溶質:1: Benzene-h6/d6; 2: Toluene-h8/d8; 3: Naphthalene-h8/d8; 4: Anthracene-h10/d10; 5: Cyclohexane-h12/d12; 6: Octane-h18/d18; 7: Dodecan-1-ol-h25/d25; 8: Decan-1-ol-h21/d21.温度:30℃

 

RPLCにおけるH/D同位体効果に基づいて,セルロース安息香酸エステル固定相により phenyl(phenyl-d5)methanolのphenyl基と phenyl-d5基の立体配置の差が識別(同位体キラリティに基づくエナンチオマーが分離)された事実(図 2 K.Kimata, et al., Anal. Chem. 69, 2610 (1997).)を受け入れることが可能となった。 GCやCEより低いとはいえ HPLCの分離能力はこの程度に高いが,驚くべきことに重水素が入手可能となった1930年代,すでに H/D同位体キラリティの分離が報告されている。 その当時の報告は旋光計の精度不足に基づくものとして後にすべて否定されたが,対象化合物の一つは phenyl(phenyl-d5)methanol で今でもそれが最も現実的な選択であり,先人の恐るべき探究心と洞察力を感じる。 また,ある方に glycine と glycine-d との分離,あるいは glycine-d の同位体キラリティに基づく分離が可能かと問われて,現在でも限界を考えない頭脳の持ち主がいることにひと安心する。

図 2 H/D同位体キラリティに基づくクロマトグラフィー分離

図 2.H/D同位体キラリティに基づくクロマトグラフィー分離

 

Column: Tribenzoylated cellulose coated silica (6.0mmI.D.-600mm, 65 cycle)Mobile phase: Hexane/2-Propanol=95/5, Flow rate: 2.0ml/min, Temperature: 40℃, Detection: UV 220nm. 20mg/ml, 0.5μl Injected.

 

これまで経験した最も困難な同位体キラリティの分離が実用性のないもので,しかも古くから興味の対象であったこと,また,30年間も余り変わらないことをしていることに,まず自らの限界を感じるが,1930年代が非常に古くて70年代が古くないと感じる方は少なくなりつつあると思い当たって再び愕然とする。 しかし,プロテオミクスの ICAT-LC/MS における H/D同位体識別の問題を考える上で上記の結果が役立つ可能性が示すように,応用主体のクロマトグラフィーにおいても基礎的な面の重要性と,訳のわからないものでも何かの役に立つ可能性がいつでもあるものと信じたい。

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