vol.21 多彩なFTIRスペクトルから得られる情報と誤解析回避

FTIR TALK LETTER
宮下 喜好 先生

2013年9月発行
宮下 喜好 先生

群馬産業技術センター


(ご所属・役職は2013年9月発行時)

1.はじめに
 赤外分光分析は世の中で最も普及した分析法の一つであり,当センターにおいても最も対応件数の多い分析項目である。測定対象は多岐に渡り,樹脂材料などの材質分析から始まり,異物や汚染物分析,接着や印刷不良解析,金属表面変色や表面改質評価などの表面分析,結晶性評価などの分子構造解析等である。このような測定対象に対して,FTIRは各種測定手法を駆使することにより有用な情報を提供してくれる。
 筆者が当初用いた赤外分光光度計は島津製作所製の分散型赤外分光光度計で,回折格子を分光器としたダブルビーム測光型であり,スペクトル記録はドラム式のペンレコーダーであった。当時としては優れた分析装置であったが,測定手法はもっぱら透過法で,付属品としていくつかの反射装置はあったものの,測定可能な試料への制約が多く,測定感度の面からも反射装置を用いることはあまりなかった。
 FTIRは開発当初は非常に高価で大がかりな装置であったが,1980年代初頭には比較的安価な卓上型FTIRが国内装置メーカーからも次々と発表された。FTIRの利点としての全波数域同時測定によるSN比の高さ(Fellgett Advantage),光束利用率とスループットの高さ(Jacquinot Advantage),波数精度の高さ(Connes Advantage)が注目され,装置の低コスト化とともに急速に普及した。これら利点は,赤外分光分析の高感度化と高精度化,および測定時間の大幅な短縮を実現したが,現在の赤外分光分析の発展と普及を加速したのは赤外顕微鏡の実用化を始めとする各種アクセサリーの開発とアプリケーション開拓であった。また,1980年代後半には高感度反射法が一世を風靡し,1990年代初頭には,それまで多重反射が主流であったATRスペクトルの測定が赤外顕微鏡内においても可能となるATR対物鏡が開発された。この革新的なATR対物鏡の発表セミナーが1991年夏に島津製作所東京支社で開催されたが,このとき来日された米国スペクトラテック社の技術者による講演は非常に興味深く,今も記憶に新しい。
 FTIRはこのように短期間で目覚ましく発展したものの,スペクトル解析の基本は依然として吸収スペクトル解析であり,透過スペクトルはもとより反射スペクトルにおいても吸収型スペクトルの取得を基本としている。近年広く普及したATR法においても,そのATR反射スペクトルは吸収型スペクトルが主であり,スペクトル解析が容易なように見えるが,いくつもの落とし穴が存在する。本稿では,多彩なFTIRスペクトルから得られる有用な情報について,そのスペクトル形と陥り易い誤解析にも触れながらいくつかの分析例を紹介したい。

2.透過スペクトルと反射スペクトル
 FTIRスペクトルは大別して透過スペクトルと反射スペクトルとに分けることができるが,実際の測定においては透過スペクトルと反射スペクトルを常に純粋な形で得ているとは限らない。また,透過スペクトルと反射スペクトルがほぼ同等であったりもする。
 図1は,それぞれ,グリースをKBr板上に塗布して透過法で測定したスペクトル(a),金ミラー上に塗布して(外部)反射法で測定したスペクトル(b),ATR法で測定したスペクトル(c)とそれの赤外光潜り込み深さ補正スペクトル(d)である。(a),(b),(d)ともにほぼ同様の吸収型スペクトルであり,グリース由来のIRスペクトルとして容易に解析を進めることができる。反射法で得られたスペクトル(b)は正反射測定装置を用いて測定したが透過吸収スペクトルが主となっており,ATR法で得られたスペクトル(c)は反射スペクトルではあるが吸収型スペクトルであり,それぞれ吸収スペクトルとしての解析が可能である。しかしながら,主要吸光帯を始めとするスペクトルのピーク位置はそれぞれ多少異なっている。スペクトル(a)に対して(b)では,主要吸光帯のピーク位置は若干高波数側であり,(d)では低波数側である。FTIRスペクトルの波数精度の高さを理由に,この差異を微妙な分子構造の差異として議論してはいけない。

図1. グリースのFTIRスペクトル
図1. グリースのFTIRスペクトル
((a):KBr板上で透過法,(b):金ミラー上で反射法,(c):ATR法,(d):(c)のATR補正)
 

 図2(a)は,鋼材表面に極薄膜で付着していた油剤を反射法で測定したスペクトルである。図1(b)で得られた吸収型スペクトルと異なり,分散型スペクトルが主となっている。図1(b)スペクトルと図2(a)スペクトルともに,基材としての金属上に油剤の層があり,空気層から入射した赤外光が金属表面もしくは油剤表面で反射して得られたスペクトルであるが,図1(b)スペクトルは,金属表面で反射した後に油剤層を透過することによって得られる透過スペクトルが主となっている。これに対して図2(a)スペクトルは,透過スペクトルではなく,油剤そのものの反射スペクトルが主である。図2(a)スペクトルが分散型スペクトルであるのは,この反射スペクトルは基材金属表面の光学特性の影響を受けているからである。油剤層が極薄であっても金ミラーなどの平滑で純粋な金属基材上であれば,油剤の反射スペクトルは吸収係数(または消衰係数:吸光係数を与える光学定数)1,2)のみに依存して吸収型となり,反射吸収スペクトルとして解析することができる(この反射吸収スペクトルは特異な偏光特性と赤外光入射角特性を有し,測定条件によっては表面感度に優れる高感度反射スペクトルと呼ばれている反射スペクトルであり,反射透過吸収スペクトルとは本質的に異なる)。しかしながら,炭素量が多くまた酸化膜で覆われた鋼材表面は光学的には純粋な金属ではなく,半導体に近い非金属光学媒質となり,油剤に対して分散型の反射スペクトルを与える理由となっている3-5)。このことは,半導体的非金属媒質であるシリコンやゲルマニウム(Ge) を基材とした測定で同様の結果が得られることからも理解できる。
 図2(b)はGe上に油剤を極薄塗布し,図2(c)はある程度の厚みで塗布して反射法で得られたスペクトルである。
 図2(b)スペクトルは図2(a)スペクトルと同様に分散型スペクトルとなっている。これに対して図2(c)は,油剤主要吸光帯領域(3000~2800 cm-1)では吸収型スペクトルが主であり,副吸光帯領域(1750~1400 cm-1)では分散型スペクトルが主となっている。この理由は,反射光を与える試料界面深さが波長の数分の一程度であることによる。油剤の厚みは数ミクロン程度であるので,主要吸光帯領域では透過スペクトルが主であり,副吸光帯領域では反射スペクトルが主となる。

図2. 油剤のFTIR反射スペクトル
図2. 油剤のFTIR反射スペクトル((a):鋼材表面極薄塗布,
(b):Ge表面極薄塗布,(c):Ge表面数ミクロン厚塗布)
 

3.外部反射スペクトルと内部反射スペクトル
 反射スペクトルは,大別して外部反射スペクトルと内部反射スペクトルに分けることができる。屈折率の低い媒質から入射し屈折率の高い媒質との界面で反射するのが外部反射で,その逆が内部反射である。両反射ともに,条件にもよるが(非金属材料の場合),界面において波長の数分の一程度対面試料側の媒質に光が潜り込み反射スペクトルを与える。前述の,空気層を入射光媒質として金属表面(金属材料への赤外光の潜り込み深さは数10 nm程度)もしくは油剤表面より得られた分散型スペクトルは外部反射スペクトルと言える。
 次に,樹脂表面から得られる外部反射スペクトルと内部反射スペクトルについて触れる。図3にPMMA樹脂平滑面より得られた外部反射スペクトル(a)と内部反射ATRスペクトル(c)を示す。これらスペクトルは,それぞれ分散型スペクトルと吸収型スペクトルであり,Kramers-Kronig変換6-8)(b)とATR補正(d)を施すことにより,透過スペクトルとほぼ同等の吸収型スペクトルとなっている。

図3. PMMA樹脂平滑面より得られた外部反射スペクトル
図3. PMMA樹脂平滑面より得られた外部反射スペクトル(a)と
そのKramers-Kronig変換スペクトル(b),ATRスペクトル(c)とそのATR補正スペクトル(d)
 

 なお,前述の金属表面油剤の反射スペクトルは,空気層/油剤層/金属層の三層が関与する外部反射スペクトルであったが,樹脂層を基材とする三層関与の外部反射スペクトルを図4に紹介する。

図4
図4. ABS樹脂(a)およびPDMS塗布ABS樹脂(b)表面より
得られた外部反射スペクトルと差スペクトル(c)((b)-(a))
 

 図4は空気層から入射した光がABS樹脂表面で反射して得られた外部反射スペクトル(a)とPDMS(ポリジメチルシロキサン)が約 100 nmの厚みで塗布されたABS樹脂表面で反射して得られた外部反射スペクトル(b),およびそれらの差スペクトル(c)である。スペクトル(a)はABSの分散型スペクトルであり,Kramers-Kronig変換によってABSの吸収型スペクトルを得ることができる。しかしながら,スペクトル(b)では,スペクトル(a)と同様にABSの分散型スペクトルが認められるものの,差スペクトル(c)からも理解できるように,スペクトル(b)におけるPDMS由来のスペクトルは負の吸光度を示す吸収型スペクトル(発散型スペクトル)となっている。このように三層関与の外部反射スペクトルは複雑であるが,その特性を理解しておけば有用な情報として活用することができる。なお,このPDMS塗布ABS樹脂から得られる内部反射ATRスペクトルでは,PDMSおよびABSともに吸収型スペクトルであり,PDMS/ABS多層構造の情報を得ることは困難である。
 次に内部反射について触れる。内部反射では,吸収係数kが0の場合,ある角度(臨界角)以上の赤外光入射角度で全反射(反射率100%)するが,kが0でない場合には反射率は100%にならず,kが大きくなるとともに反射率は低下していく。このとき得られる反射スペクトルがATR(Attenuated Total Reflectance)スペクトルであるが,TRスペクトルではないことに対する理解が必要である。ATRスペクトルは,kが小さいときには反射率は100%に近く良好な吸収型スペクトルとなるが,kが大きくなると反射率は低下していき,スペクトル形も吸収型スペクトルからずれ,歪んだスペクトルとなっていく。また,この傾向は赤外光入射角度が臨界角近傍に近づくにつれて顕著になる9, 10)。さらに,kが大きくなると臨界角が不明瞭となり,吸光係数の大きい吸光帯スペクトルもしくは臨界角近傍 で測定したスペクトルの解析には十分な注意が必要である。
 図5はPTFE樹脂の透過スペクトル(a)とATRスペクトル(b),(c)である。PTFEのIRスペクトルでは,主要吸光帯の吸光係数は前述のPMMAに比べ高く,そのATRスペクトルは透過スペクトルに比べ主要吸光帯のスペクトルピーク位置は低波数側にシフトし,スペクトル形も変形している。また,ATRスペクトル(b)と(c)とでは,入射光媒質などの測定条件の差異によって異なったスペクトル形となっている。この3つのスペクトル間の差異を化学状態の差異としてはいけない。

図5
図5. PTFE樹脂の透過スペクトル(a)と,
ATRスペクトル(b)(入射光媒質:Ge,赤外光入射角度:30±5°),
(c)(入射光媒質:Dia,赤外光入射角度:45±5°)
 

4. 混合物系のATRスペクトルと差スペクトル解析
 図5から解るように,PTFEなどの吸光係数の大きい吸光帯を有する物質のATRスペクトルには顕著なスペクトル歪みが見られるが,例外も存在する。図6にPTFE微粒子充填PPS樹脂のATRスペクトル(a)とPTFE微粒子単独のATRスペクトル(b),およびその透過スペクトル(c)を示す。PTFE充填PPSのATRスペクトル中のPTFE由来スペクトルは,PTFE単独のATRスペクトルよりも透過スペクトルに酷似している。

図6
図6. PTFE微粒子充填PPS樹脂のATRスペクトル(a)および
PTFE微粒子のATRスペクトル(b)と透過スペクトル(c)
 

 この理由としては,微粒子のサイズが赤外線波長レベルかそれ以下で,微粒子がマトリックスによって均質に混合希釈された場合,試料側反射媒質の屈折率およびスペクトル吸光係数は,微粒子(PTFE)とマトリックス(PPS)との平均化された値になることによると考えられる。そのため,吸光係数の小さい物質で吸光係数の大きい試料を均質に希釈すれば,試料側反射媒質の平均吸光係数を小さくすることができ,ATRスペクトルのスペクトル歪みを緩和することができると考えられる。
 この現象を検証するために,PTFE微粒子をパラフィンで混合した試料についてATR測定を行った。各混合試料のPTFE主要吸光帯ATRスペクトルを図7に示す。PTFEをパラフィンで希釈していくにつれスペクトル歪みは緩和していき,PTFE:パラフィン=25:75(W%)の混合割合で希釈した試料では,そのATRスペクトルは透過スペクトル(図5(a))とほぼ同等となっている。

図7
図7. PTFE微粒子とパラフィン混合物のATRスペクトル
(PTFE:パラフィン混合割合(W%)=(a)100:0,(b)75:25,(c)50:50,(d)25:75,(e)0:100)
 

 次に,ポリマーアロイ材料であるPC/ABS樹脂2種類より得られたATRスペクトルとそれらの差スペクトルを図8に示す。ABSリッチPC/ABSのATRスペクトル(a)からPCリッチPC/ABSのATRスペクトル(b)を差し引いた差スペクトル(c)は,ABS由来のスペクトルが主であるがPCの主要吸光帯由来スペクトルが引き残っている。このスペクトル引き残りをPC樹脂の分子構造の違いやPCとABSの相互作用の違いとして短絡的に解析してはいけない。ABSで希釈されたPC由来スペクトルの希釈率の違いによるスペクトル歪み緩和の差異として解析する必要がある。

図8
図8. PC/ABS樹脂のATRスペクトル
((a)ABSリッチ,(b)PCリッチ)と差スペクトル(c)((a)-(b))
 

5.試料形態と透過スペクトル
 このように,ATRスペクトルを始めとする反射スペクトルは,透過スペクトルに比べスペクトル歪みが発生しやすくスペクトル解析を困難なものとしているが,透過スペクトルが常に真のスペクトルという訳ではない。試料形態の異なるシリカ微粒子の透過スペクトルを図9に示す。

図9
図9. シリカ微粒子の透過スペクトル((a)粉体状態,
(b)ダイヤモンドコンプレションセルで平滑化処理)
 

 スペクトル(a)はシリカ微粒子を粉体状で測定した透過スペクトルであり,スペクトル(b)はダイヤモンドコンプレッションセルで平滑化して測定した透過スペクトルである。スペクトル(a)はスペクトル(b)に比べ,光散乱度合の波数依存性によるベースラインの傾きが見られるが,これ以外にシリカの主要吸光帯スペクトルの形状に差異が見られる。
 この差異からシリカの分子構造の差異を議論できないことを考えれば,透過スペクトルの取得と解析においても十分な注意が必要であることが理解できる。同様に,樹脂などの透過スペクトルにおいても,試料形態の差異によるスペクトル差異から,樹脂の劣化度合いやグレード差異の議論はできない。

おわりに
 誌面の都合で各種FTIRスペクトルの一部しか紹介できないが,FTIRスペクトルが有する情報の多彩さとともに,スペクトル取得方法と解析に十分な注意が必要であることを理解いただければ幸いである。測定手法と測定条件によってスペクトルは容易に変動する。反射法で測定したスペクトルが透過スペクトルであったり,ATR法で測定したスペクトルが外部反射吸収スペクトルであったりする11, 12)。また,本稿では触れなかったが,反射スペクトルには多様な偏光特性があり,多彩な情報が得られるとともに解析には注意が必要である。さらに,FTIRでは干渉計より得られたインターフェログラムのフーリエ変換においていくつかの関数処理を施しており,吸光度の大きいスペクトルでは関数の選択によってはスペクトルに顕著な変化が現れる場合もある。また,場合によっては干渉計ミラー速度や光源アパーチャーサイズなどの測定条件の精査も必要となり,検出器の感度特性と飽和特性の確認も重要である。
 最近のFTIRは汎用化が進み,容易にスペクトルを取得することができるようになった。その分,適切な試料処理を心がけ,分析目的にあった測定手法を選択するとともに,試料の光学特性を十分に考慮し,スペクトルから真の分子振動エネルギー情報と分子構造情報を見極める力を養いたいものである。

参考文献

1) 長谷川健著“スペクトル定量分析”講談社サイエンティフィク(2005)p.14.
2) J. E. Berite, “Glossary of Terms used in Vibrational Spectroscopy”(vol.5), Wiley (2002).
3) T. Hasegawa, J. Umemura, T. Takenaka, J. Phys. Chem.,97(35),9009(1993).
4) H. Brunner, U. Mayer, H. Hoffman, Appl. Spectrosc.,51, 209(1997).
5) 長谷川健,化学と工業,51,151(1998).
6) H. A. Kramers, Nature, 117, 775(1926).
7) R. de L. Kronig, J. Opt. Soc. Am., 12, 547(1926).
8)岩崎祥子,FTIR TALK LETTER,Vol.17, p.11.
9) I. R. Chandler, Appl. Optics, 22, 4099(1983).
10) 錦田晃一,岩本令吉著“赤外法による材料分析”講談社(1986)第4章.
11) 宮下喜好“顕微赤外分光法”,西岡利勝,寺前紀夫編,アイピーシー(2003) p.265.
12) 宮下喜好“顕微赤外・顕微ラマン分光法の基礎と応用”,西岡利勝,錦田晃一,寺前紀夫監修,技術情報協会(2008)p.178.

関連情報

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