ATRの注意点 その2:定量分析
FTIR TALK LETTER vol.2(2004)
「ATRの注意点 その1」では使用するプリズムの屈折率の違いにより生じる部分的なピークシフトと,試料をプリズムに密着させる際の押し付け強さによって生じるスペクトルの変化についてご紹介しました。 今回はATR法を定量分析に用いる場合の注意点についてご紹介したいと思います。
「ATRの注意点 その1」では使用するプリズムの屈折率の違いにより生じる部分的なピークシフトと,試料をプリズムに密着させる際の押し付け強さによって生じるスペクトルの変化についてご紹介しました。 今回はATR法を定量分析に用いる場合の注意点についてご紹介したいと思います。
1. ピーク強度比の利用
吸収スペクトルのピーク強度(吸光度)はそのピークの吸光係数,光路長,そして濃度に比例します。 これらのうち,吸光係数は定量すべき目的成分とその着目ピークが決まれば定数となります。 また,液体試料を透過法により定量分析する際によく用いられる固定セルを使えば光路長も一定となるため,得られたスペクトルのピーク強度は濃度のみに比例することになります。 従って,濃度既知の標準試料を測定し得られたピーク強度とその目的成分濃度から検量線が得られます。 これを多点検量線法(1点を含む)といいます。 ピーク強度と濃度は比例しているため,通常,検量線は直線となります。
ATR法における「光路長」はもぐりこみ深さと密着面積の積と考えることができます。 このうち,もぐりこみ深さはプリズムの屈折率,入射角度,試料の屈折率,着目ピークの位置(波数)に依存する値ですが,着目ピークと使用するATR装置が決まれば一定となります。 従って,密着面積を一定にして測定すればピーク強度は濃度と比例することになります。 実際,液体試料の場合はプリズム全面に試料を滴下して測定すれば直線性の良い検量線が得られます。 しかし,個体試料の場合は話が変わってきます。 固体試料とプリズムとの密着面積はその押し付け強さと試料の硬さや形状により左右されるので,常に同じ密着面積で測定することが困難なためです。 この密着面積の違いを補正するために用いられるのが目的成分のピーク強度を主成分などのピーク強度で割ったピーク強度比です。 仮に密着面積が2倍になれば目的成分のピーク強度は2倍になりますが,主成分のピークも2倍になるため,ピーク強度比は変化しません。このため,ATR法による固体試料の定量分析の際はピーク強度比と濃度とで検量線を作成する必要があります。
2. 密着具合による影響
上記のように,ピーク強度比を用いることで密着面積の違いは補正できます。 しかし,だからといってピーク強度をまったく無視できるというわけではありません。 密着面積が大きく異なるスペクトル間にはピーク強度比では補正できない差異があり,それが検量線の直線性や結果の再現性を劣化されるからです。
この「ピーク強度比では補正できない差異」が密着具合の差異です。 密着具合はプリズムと試料との間にあるわずかな隙間の量や隙間の大きさと考えていただくと良いかもしれません。 この密着具合はピーク強度比に影響を与えます。
図1は1回反射ATR測定装置デュラサンプラーIIを用い,3段階の押し付け強さで測定したポリスチレンのスペクトルです。 押し付け強さを変化させたことで密着面積に違いが生じスペクトル全体のピーク強度に大きな差異が見られます。 これら3スペクトルに対し1500 cm-1付近のピークで規格化処理した結果を図2に示します。 図2の中の左上は3000 cm-1付近の拡大図です。 密着面積のみの違いであれば,1本のピーク強度を用いて規格化することによりすべてのピーク強度が一致するはずですが,図2では一致しておらずまた,低波数側と高波数側とでピーク強度の逆転が起こっています。 これは押し付け強さを変化させたことで密着面積だけでなく密着具合にも違いが生じ,スペクトル全体のピーク強度とともにピーク強度比が変化したためです。 押し付け強さの弱いスペクトルは相対的に高波数側のピーク強度が小さくなっており,通常,密着具合の良くないATRスペクトルには同様の現象が見られます。 このように密着具合の違いはピーク強度比に影響を与えるため,特に定量分析の際は密着具合をあわせた測定が必要となります。
3. ピーク強度比の再現性
では,どのようにして密着具合をあわせればよいのでしょうか? また,どの程度の再現性が得られるのでしょうか? その一例としてATRプローブによる光ファイバーシステムを用いたエチレン-酢酸ビニル共重合体の分析結果を紹介します。
測定は,モニター測定において2920 cm-1付近のピーク強度が0.7ABSおよび0.3ABS程度となるよう押し付け強さを調整してそれぞれ5回づつ行いました。 合計10スペクトルを図3に示します。 2920,2850 cm-1付近のピークは主にエチレンによるC-H伸縮振動で,1735,1235 cm-1付近のピークは酢酸ビニルのそれぞれC=OとC-Oの伸縮振動によるものです。 従って,酢酸ビニルの存在比率により前者と後者のピーク強度比が変化します。 今回は同じ試料を繰り返し測定したため,酢酸ビニルの存在比率は一定です。 そこで1735,1235 cm-1付近のピークと2920 cm-1付近のピークとのピーク高さ比を用いて再現性を確認してみました。 結果を下の表に示します。
下の表より,10スペクトルすべてを用いて算出したCv値に比べ,ピーク強度が同程度のものごとに算出したCv値の方が格段に向上していることがわかります。 従って,ピーク強度を合わせて測定することで密着具合の差異を小さくすることができ,再現性の良い結果が得られるということがわかります。 なお,ピーク強度の大きい方の再現性が良くなっているのはノイズなどによる影響が小さいためと考えられます。
ピーク高さ比の計算結果
10スペクトルすべてによる 算出 |
ピーク強度0.7ABS程度の スペクトルによる算出 |
ピーク強度0.3ABS程度の スペクトルによる算出 |
||||
---|---|---|---|---|---|---|
ピーク高さ比 (*/2920 cm-1) |
1735 cm-1 |
1235 cm-1 |
1735 cm-1 |
1235 cm-1 |
1735 cm-1 |
1235 cm-1 |
0.7ABS-1 | 1.045 | 1.225 | 1.045 | 1.225 | ||
0.7ABS-2 | 1.044 | 1.217 | 1.044 | 1.217 | ||
0.7ABS-3 | 1.042 | 1.222 | 1.042 | 1.222 | ||
0.7ABS-4 | 1.045 | 1.231 | 1.045 | 1.231 | ||
0.7ABS-5 | 1.059 | 1.235 | 1.059 | 1.235 | ||
0.3ABS-1 | 1.182 | 1.251 | 1.182 | 1.251 | ||
0.3ABS-2 | 1.164 | 1.251 | 1.164 | 1.251 | ||
0.3ABS-3 | 1.171 | 1.267 | 1.171 | 1.267 | ||
0.3ABS-4 | 1.157 | 1.267 | 1.157 | 1.267 | ||
0.3ABS-5 | 1.151 | 1.274 | 1.151 | 1.274 | ||
平均 | 1.106 | 1.244 | 1.047 | 1.226 | 1.165 | 1.262 |
標準偏差 | 0.063 | 0.021 | 0.007 | 0.007 | 0.012 | 0.011 |
Cv% | 5.693 | 1.670 | 0.652 | 0.580 | 1.066 | 0.835 |
1735: 1800-1612 cm-1
1235: 1300-1150 cm-1
2920: 2990-2870 cm-1にてそれぞれ補正
4. まとめ
以上のようにATR法を用いて固体試料の定量分析を行う際は、
- 密着面積の補正 → ピーク強度比を用いる
- 密着具合を合わせる → ピーク強度を合わせて測定
ということが重要であることがおわかりいただけたと思います。 なお,今回のエチレン-酢酸ビニル共重合体によるピーク強度比の再現性の確認では,1735と1235 cm-1付近のピークに対し2920 cm-1付近のピークを補正ピークに用いてピーク高さ比を求めましたが,密着具合の違いによるピーク強度比への影響はピーク位置が離れるほど大きくなります。 このため,できるだけ目的ピーク近傍のピークを補正ピークとした方が密着具合の違いによる影響を軽減できます。