
お客様のご意見・ご要望のご紹介
鈴木 信三 先生
京都産業大学理学部 物理科学科(分子物質科学グループ)教授 (ご所属・役職は2010年4月発行時)
■1.はじめに
京都産業大学は、昭和40年(1960年)に宇宙物理学・天文学を専門とする荒木俊馬博士を初代学長として、理学部・経済学部の2つの学部をもとに創設されました。そのため私立大学としては理学部の歴史が長く現在(2009年度)まで約半世紀に及びます。現在の理学部には物理科学科と数理科学科の2つの学科があり、そのうち物理科学科では特に天文・宇宙物理に関する理論・観測系分野や基礎物理分野(素粒子論など)が充実しています。2008年に益川敏英教授(現在、益川塾所属)のノーベル賞受賞があり日本中で大騒ぎになったことから、最近では京都産業大学の名前も徐々に知られるようになってきました。2009年末には「神山天文台」という直径1.3mの光学反射型望遠鏡を有する天文台が大学キャンパス内の見晴らしの良い場所に完成して、 教育用施設のみならず可視から近赤外領域にかけての分光観測等の研究拠点として、現在強い期待が寄せられています。
筆者はこの京都産業大学理学部(物理科学科)に2006年度からお世話になっています。専門分野が"フラーレンや単層カーボンナノチューブ等の炭素ナノ構造体の物理化学"ということから、研究活動以外の業務として、物理科学科の学部学生向けに主に"化学"方面の講義や実験を担当しています。その中の一つとしてここ3年間、学部3年次学生を対象とした学部学生向け専門実験を島津製作所のFT-IR(IRPrestige-21)を用いて行ってきました。今回本稿を依頼されたことを契機として、京都産業大学理学部でFT-IRをこれまでどのように利用してきたか、簡単に御紹介したいと思います。
■2.二原子分子の赤外分光: 塩化水素(HCl)
京都産業大学理学部物理科学科の学生は通常、2年次を終了するまでに『力学』『熱力学』『電磁気学』『微分学積分学』『代数学幾何学』等の物理・数学の基礎的な必修科目(講義・演習)を受講するとともに、『物理学実験A/B(基礎実験)・演習』(1年次、週1回(2コマ分))の実験科目の受講を通じて様々な物理現象を体験するようになっています。3年次になると『量子力学』『統計熱力学』の他、更に興味に応じて宇宙・天文、素粒子、物性、気象、環境など様々な分野にわたる専門選択科目を受講していきます。3年次対象の物理実験については春学期(前期)に『物理学実験C(専門実験)』、秋学期(後期)に『物理学特別実験(各担当教員ごとに分かれた実験)』が必修科目として学科カリキュラム内に配置されており、理論系に進む学生でも研究室に配属される前に必ず専門実験を体験するようになっています。
ここでは筆者が現在担当している『物理学実験C(専門実験)』中の「赤外吸収スペクトル」について御紹介します。『物理学実験C』では1学年(50名弱)を約6~8人のグループに分け、5~7名の教員がそれぞれ担当するテーマを2週間(2コマ(3~4時間程度)で2回)程度で巡回するというスタイルで進行していきます。従って実際に各テーマで実験にさける時間はそう多くありません。
塩化水素(HCl)の赤外吸収スペクトルという実験テーマは、主に化学系の物理化学の教育を受けてきた者にとってはごく普通の、標準的な実験テキスト1)でも最初の方に書いてある題材です。ところが実際に物理科学科の学生を前にこのテーマを進めていくと、実はそう簡単なことではない、ということが分かってきました。
その理由は、実験を行う前にあらかじめ学生さんに理解してもらわなければならない項目(物理科学科の通常の講義、実験ではあまり教えられていないこと)が結構あるためです。以下に、思いつくままに列挙してみます。
(1)"光を吸収する"ということはどういうことか。透過率の定義。
(2)Lambert-Beerの法則、透過率と吸光度の関係
(3)エネルギーの単位(波数(cm-1)表示)
(4)調和振動子・剛体回転子に対するシュレディンガー方程式の解について
(振動・回転エネルギーの表現)
(5)振動回転スペクトルにおける光学遷移の選択則
(6)FT-IRの原理(マイケルソン干渉計)
現実にはこの(1)~(6)の説明だけで、概ね1コマ分(約2時間)を使ってしまいます。やむを得ないことかもしれませんが『量子力学』を同時並行で学んでいる最中の、光の吸収・放出の量子論をまだ学んでいない3年次春学期(前期)の学生さんに光学遷移の選択則を理解してもらうのは、やはり大変です。従って(5)に関しては選択則(結果)を述べておしまい、というスタイルの説明しか今のところできていません。今後の課題です。
さて、これだけのことを実験前に理解させてからようやく実験開始です。生まれてはじめて赤外吸収スペクトルを目にする学生が大部分なので、大気のバックグラウンド測定を行うだけでも彼らにとっては新鮮です。このバックグラウンド測定の時に、大気中で赤外吸収する主成分が水(H2O)や二酸化炭素(CO2)であること、同じ分子でも複数の振動モードに由来する吸収バンドが存在することや、島津製作所のFT-IR装置(IRPrestige-21)で気体測定用としていちばん高い分解能(0.5cm-1)を用いれば、例えば二酸化炭素の吸収ピークにも振動回転構造が現れていること(図1)などを、積算している待ち時間中に実際にスペクトルを拡大しながら説明します。 地球温暖化の問題が社会問題になっている折から、"二酸化炭素が赤外光を吸収する"というイメージそのものは、比較的抵抗無く学生たちに受け入れられるようです。
塩化水素(HCl)は、気体測定用の標準的なガスセル(長さ10cm、NaCl窓板)をあらかじめ真空ポンプで排気しておき、濃塩酸をゴム管でガスセル中に吸い込むことによって気体試料とします。水や二酸化炭素と赤外吸収するエネルギー帯域(波数領域)が違うので、一見いい加減に見えるこのような方法でも、 実際の測定結果にはほとんど影響しません。そのようにして得られた典型的な赤外吸収スペクトル測定結果(透過率表示)を図2に示します。分光学の教科書、参考書2)でおなじみのP枝、R枝がぞれぞれ10本程度見えていること、各ピークは同位体(35Cl、37Cl)の 異なる塩化水素分子が存在しているため各々のピークが2本に分裂しかけている様子が、スペクトルから読み取れます。
得られたスペクトルを用いて1週間後(2日目)に解析を行います。この実験テーマでは、 これらのスペクトルの各ピークのうちで1H-35Cl由来のピーク位置を用いて解析を行うよう指示しています。 調和振動子近似のもとでは、1H-35Clの基底状態の回転定数をB0、励起状態の回転定数をB1とすると、 各々のピーク位置((cm-1))は以下の1つの式でまとめて表現することができます1)。
ここでmで表されるパラメータは、各々の振動回転遷移に対応した整数値(・・・, -2, -1, 0, +1, +2,・・・)です。P枝(回転の量子数で J → J - 1 )に対して m =-J ( J = 1, 2, 3, ・・・)、R枝(回転の量子数で J → J + 1)に対して m = J + 1 (J = 0, 1, 2, 3, ・・・)という関係になっています。
得られたピーク位置(P枝及びR枝)を用いて、上記の式にフィッティングするわけですが、 1年次の『物理学実験A/B・演習』の時に習った?はずの最小二乗法の取扱いを忘れている学生も多いため、本テーマでは数字を入れれば勝手に二次式にフィッティングするようなExcelのマクロをあらかじめ用意しています(図3)。 学生たちはその空欄へ波数単位で読み取った値を打ち込みさえすれば、フィッティングされた二次式をその場で調べることができるので、 その多項式の係数から中心波数(0)や回転定数(B0、B1)も簡単に求めることができます。図3からグラフが直線からずれていること(すなわち B0≠B1であって、基底振動状態と第一励起振動状態では平衡核間距離が異なること)が分かります。ここまでくれば、平衡核間距離(r0、r1)や力の定数(k)を求める計算はかなり楽になるはずなのですが・・・単位系を間違えたり換算質量(μ)の求め方が分からなかったりするため、例えば"塩化水素の原子間距離は~m(!)"などという答を平気で出してくる学生もいるので、最後まで気を抜くことはできません。
学生実験としてはこの辺までの結果をレポートでまとめてくれれば文句なしに合格なのですが、中にはボルツマン分布を仮定して回転線の強度(吸光度)分布から回転温度を見積もることができるかどうか、 更に踏み込んで検討してくれる学生さんもいます。同じ回転量子数( J )で表される振動回転状態から到達可能な状態はP枝(J → J - 1)とR枝(J → J + 1)の2通りが存在します。 P枝あるいはR枝の強度分布(IP(J), IR(J))だけでボルツマン分布を仮定して回転温度の値を見積もることもできるのですが、実はそれではP枝とQ枝の場合で得られる温度の値がかなり異なり、妥当な値になりません。代わりに、
という形で考えたほうが、全てのデータをうまく利用してより妥当な回転温度を見積もることができる、ということを最近になって知りました3)。 熱心な学生さんがいると、怠け者の実験担当者も良い刺激を受けて勉強させられるという良い見本です。
■3.多原子分子の赤外分光: フラーレン(C60)
サッカーボール構造を持つC60分子は、1985年にKroto, Smalleyらによりレーザー蒸発クラスター分子線・飛行時間型質量分析装置を用いて、 円盤状のグラファイトを蒸発後に高密度ヘリウム中でクラスター成長させることによって、炭素クラスターの特徴的な"魔法数"として観測されたのが最初です4)。この時、彼らはその存在を気相中でしか確認できませんでした。その後、1990年に抵抗加熱法5)やアーク放電法6)などを用いて、 不活性ガス(ヘリウムなど)の雰囲気中で炭素を蒸発させて生成したスス中に、大気中で安定であり溶媒抽出可能な物質として大量に合成することができるようになってからは、 その研究が爆発的に進行しました。今では高校の教科書にもダイヤモンドや黒鉛(グラファイト)とならんで第3の"同素体"として取り上げられるほど、身近な物質として知られています。
京都産業大学では、3年次の秋学期(後期)に『物理学特別実験』という必修選択科目があり、そこでは学生たちが複数のテーマの中から1つを選んで週1回(2コマ分)、約半年間に渡って担当教員のもとで実験やそのテーマに関連したゼミ(論文紹介など)を行います。理論系の研究室に配属される学生でも必ずこの実験科目を履修することになっていて、物理実験の感覚を肌で感じる良い機会です。筆者がこの科目で担当しているテーマは、「C60分子の作製、溶媒抽出、分離精製とその分光学的評価」で、 そこでは学生さん自身にアーク放電装置を用いてC60分子を含むススを実際に作製してもらい、溶媒抽出、分離精製などの操作を行った後に可視紫外吸収スペクトルや赤外吸収スペクトルなどの測定を通してC60分子についての理解を深めてもらうことを目標としています。
ここでは、実際に溶媒抽出されたC60その他のフラーレン(C70や高次フラーレンも含む)の赤外吸収スペクトルについて御紹介します。アーク放電法で作製したススからトルエンで溶媒抽出された生成物は、 溶媒を蒸発させると茶~黒色の固体試料になります。その試料の一部をKBr粉末に混ぜて、ミニハンドプレス(MHP-1)でミクロ錠剤を作製し、KBr粉末のみで作製したミクロ錠剤をバックグラウンドとして赤外吸収を測定した結果が図4になります。C60分子はその対称性がIhというきわめて対称性の高い分子であるため、振動の自由度が3×60-6=174という非常に大きな数であるにもかかわらず、赤外活性振動モードはたった4種類しか存在しません7)。 それらのピーク(527cm-1, 577cm-1, 1183cm-1, 1429cm-1)がスペクトル上に明瞭に現れていること、またこのスペクトルには他にも、C70あるいはよりサイズの大きな高次フラーレンに由来するピークも現れていることなどを、過去の論文5),8)と比較しながら見ていきます。
実際にミクロ錠剤を作製する際には、どのくらいの量の試料を混ぜるか、 またミニハンドプレスの加圧の程度をどのくらいにするかによって、 スペクトル形状はかなり変化します。学生さんたちには、自分たちが作製した試料を実際に用いてもらうことによって、 測定の雰囲気を少しでも味わってもらえればと願いながら実験を行っています。赤外活性モードが4種類しかない理由は分子の対称性(群論)の言葉を使うと理解しやすいのですが、 現在のカリキュラムでは学部学生向けに分光学の講義が開講されていないので、なかなかそこまで説明する余裕はありません。この点も今後の課題といえます。
■4.おわりに
以上、過去3年間にわたって行ってきた学生実験の中で、FT-IRを用いた部分について御紹介してきました。自分の学生時代を振り返ると、自記記録式の赤外分光光度計を用いて波数掃引しながら、 時間をかけてチャート紙にスペクトルを記録していた記憶や(化学系だったので)試料として塩化水素やその重水素置換体(HCl, DCl)を自分で合成する時間があり、その最中に誤って実験室内に塩化水素を撒き散らして周りの人に迷惑をかけていた記憶があります。現在のFT-IRは、1回のスキャンで基本的にすべてのエネルギー範囲にわたってスペクトルが得られてしまうので、測定時間が短縮できて非常に便利な半面、その原理(マイケルソン干渉計)を十分に理解しておかないと、測定原理や装置の中が本当にブラックボックスになってしまいます。天文台を用いた観測でも分光は非常に大切なテクニックなので、今後とも学生さんに興味を持ってもらえるような実験やデータ解析の工夫ができればと思っている次第です。
参考文献