vol.100 LCtalk の100 号刊行を祝して ~想い出すままに

2017年7月 発行
中村 洋 先生

公益社団法人日本分析化学会分析士会
会長
(液体クロマトグラフィー研究懇談会 委員長,東京理科大学名誉教授)
(ご所属・役職は2017年7月発行時)

はじめに
 先ず,この度LCtalkが100号を迎えられることにつき,関係者の皆様に祝意を表したいと思う。本誌の編集長をされている三上博久氏によれば,LCtalkは1984年の秋に創刊されたとのことで,LCtalkには30余年の歴史があり,その歩みは日本におけるHPLCの発展の軌跡そのものと言える。この間,LCtalkはHPLCおよび関連技術に関する最新情報をユーザーに提供し続けてきた訳であり,我が国における分離科学のトップメーカーとしての島津製作所には,弛まぬ努力に敬意を表する。
 さて,筆者は1970年代前半からHPLCを使用した方法論の開発に携わり,2011年に大学を定年になってからもHPLCと関連技術の普及に努めていることもあり,LCtalkには数度にわたり執筆する機会を得た。本稿では,編集人が希望する失敗談を交え,筆者のHPLC研究を振り返ってみたい。

1970年代
 筆者は東大薬学部薬品分析化学教室(田村善藏教授)に配属され,卒研の1年間はビフィズス菌のバイオオートグラフィー検出法を開発した。修士時代(1968-1970)には,ビフィズス菌の栄養源となる各種糖類のガスクロマトグラフィー(NaBH4還元後,TMS化またはTFA化)を開発し,この手法をヒトにおける二糖類代謝研究に応用した。その時に使用したのがGC-1B,GC-1C(何れもFID装着)とGC-4APE(ECD装着)のガスクロマトグラフ(島津製作所)であった。このうち,GC-1Bは筆者が最初に接したGC装置であったが,背丈よりも大きい洋服ダンスのようなサイズであったことを覚えている。この装置はチャート用紙にフェルトペンでクロマトグラムを記録する方式であったが,都合が悪いピークが出現する場合はチャートを止めてペンを持ち上げた状態にし,ピークが出終わってからチャートとペン書きをオンにする先輩の高等技術に感心したことを懐かしく想い出す。
 博士課程の2年になった1971年,教授からのお誘いで中退し,10月から教務職員としてビフィズス菌グループに属する研究員,大学院生,卒研生などのお世話をすることとなった。2年経って助手に昇進し,研究を楽しんでいたが,先輩の助手が突然帰国することになり,そのポストを空けるため急遽留学することが決まった。慌てて博士論文を纏めた11月から2年間,NIHのJohn J. Pisano博士のラボにVisiting Fellowとして留学した。NIHの1年目はHPLC装置がラボに1台しかなかったため,TLCと蛍光分光計を使って仕事をするしかなかった。2年目に入った1975年11月あたりから漸くDuPontのHPLC装置をラボの米国人2名と交代で使用させて貰うことができた。この装置は,移動相貯槽を2つ内蔵し,大型の棺桶のような形状であり,移動相を吸引するごとに物凄く五月蠅い音がした。後に,島津製作所が初めて市販したLC830 HPLC装置(1972)の原型となった装置と聞いた。装置は共用であったが,神経伝達に関わるアミン類やペプチド類をPartisil 10 SCXカラムとクエン酸リチウム系移動相で分離する系を創ることができ,貴重な経験となった。
 1976年11月に帰国後,市販のHPLC装置が購入できなかったため,バラ買いしたポンプ,圧力計,ダンパー,ステンレス配管などを組み上げてHPLC装置を自作した。しかし,1日の1/3から1/2はポンプヘッドや配管の接続部からの液漏れに追われ,右手の指先が酷く荒れていた記憶がある。この頃,ペプチドやタンパク質をポストカラム蛍光誘導体化する系を劇的に増感する工夫として,カラム溶出液をコイル中で(後には瞬間加水分解装置)加熱してアミノ酸にまで加水分解し,OPA-チオール試薬を添加するシステムの開発を行っていた。恒温槽を買う費用が無いため,プラスチックの洗面器に水を張り,投げ込みヒーターを入れてポストカラム加水分解を毎日試みていた。或る日,実験が終り御茶ノ水駅から自宅に向かう車内で,投げ込みヒーターのプラグを抜いたかどうかが気になり始め,秋葉原駅で引き返し大学まで戻ったこともあった。当時は,研究費漬けの現在と違い,大半が文部省の科学研究費に依存していた時代背景があるものの,今,考えれば随分と乱暴な実験をしたものである。大学を燃やさずに済んだ幸運に感謝するのみである。

1980年代
 当時は現在のように質量分析計(MS)が普及していなかったため,生体試料を扱うバイオメディカル領域ではHPLCの検出器に高感度・高選択的な蛍光検出器や電気化学検出器を使用するのが一般的であった。実際には発蛍光物質や電気化学活性物質はそれほど多くはないので,有機化合物の官能基に対する誘導体化試薬の開発が大倉洋甫研究室(九大薬),南原利夫研究室(東北大薬),民間では石田泰夫グループ(島津製作所)などを筆頭に全国で盛んに行われていた。筆者も助手を務めていた頃,第1アミン,第2アミン,チオール,カルボニル化合物などに対するプレカラム・ポストカラム蛍光誘導体化試薬の開発に夢中になっていた。蛍光検出HPLC法の初期の仕事の殆どは,フィルターで励起光を選択できる細長い箱形のFLD-1蛍光検出器(島津製作所),その後は分光型のRF-535蛍光検出器(島津製作所)のお世話になった。
 1986年,恩師の田村教授が東大を定年退職となり,後任に同じ教室の先輩である中嶋暉躬教授が着任された。その年,筆者は助教授となり教授が生理活性天然物の探索,助教授が分析化学を主に担当することになった。助教授になってからは,中嶋教授の名代として外回りの会議に出席する機会が増えた。当時の厚生省が組織した「乱用薬物鑑定法班」もその一つであり,毛髪中の覚醒剤をメタノール‐塩酸の混液で超音波抽出し,蒸発乾固後にダンシルクロリド(DNS-Cl)で蛍光標識して蛍光検出逆相HPLCで分離定量する手法を開発した。この方法は,既にLC/MS法が主力となっていた当時の状況にあって,MSを購入できない施設でも実施できるように工夫したものであった。その際,DNS標識覚醒剤の抽出にSFE/SFCシステムを使用すると選択性が高まることを見出した。
 助手の時代から,薬科大学から卒研生を毎年派遣して戴いていたが,助教授になってからは新たに2つの私大の理学部と工学部から卒研生の派遣を戴き,4大学の4年生が交流できる場ができた。彼らにはそれぞれ立派な卒論を書いて貰ったが,武勇伝も残してくれている。即ち,ポンプシールの交換時にプランジャーを折ったり,カラムの焼結フィルターの詰まりを硝酸溶液で洗浄した後,よく洗わずにカラムに取り付けて高価なChiral-AGPカラム(α1-酸性糖タンパク質固定化カラム)の光学分離能を喪失させたり,ポンプの吐出口のネジをボンベ用の自在スパナでネジ切ってしまったり,などである。「装置や機械は壊してみないと本当には分からない」という趣旨の言葉があるが,その通りであり,失敗のお蔭で筆者自身の身になったものが多い。
 中嶋教授が陸棲小動物の毒や生理活性物質に興味をもっておられたので,卒研生と一緒に「ウジクロマトグラフィー」の開発を試みた。即ち,センチニクバエの幼虫(ウジ)の第3節にマイクロシリンジで試験液を注入し,軟質ガラス管の中を何cm移動するかを指標として,新規活性物質の探索を行う手法の開発も行った。

1990年代以降
 筆者は理研の本間春雄先生(HPLCコースのオーガナイザー)のお誘いにより,関東支部主催の第25回機器分析講習会(1984)の講師を鈴木義仁先生(山梨大工),及川紀久雄先生(新潟薬科大)らと一緒に務めていたが,やがてオーガナイザーを務めることとなった。講習会に初めてLC-MSを採り挙げた「高速液体クロマトグラフィーとLC-MSの実際」(第32回,1991)では,講師の寺 正成さん(島津製作所)が理研に1週間程,泊まり込んでMSの実機調整に当たってくれたことを想い出す。また,1995年ごろには日立製作所のMSが東京理科大学薬学部10号館(新宿区船河原キャンパス)のエレベーターに入り切らず,急遽クレーンで吊上げて2階実習室の窓を外して搬入した珍事もあった。筆者がオーガナイザーになってからは,実習講師には毎年新たに実験をして貰い,そのデータに基づいて実習をお願いする方式としていた。今でもよく覚えている実習は,牧田睦彦さん(島津製作所)にお願いしたもので,カラムと検出器の間にユニオンを10数個繋ぎ,ユニオンの数に応じてピークの広がりと理論段数の低下が見られ,カラム外拡散が一目瞭然となる見事なデータであった。
 筆者が1994年の春,東京理科大学薬学部に教授として転出した頃,日本にも本格的なLC-MS時代が到来する魁が感じられた。そこで,当時,大学から支給される研究室予算の4.5倍(正価)もするLC-MSを数年後に何とか購入したが,ポンプオイルの逆流,ファンの飛び外れ,などのハプニングで修理代が嵩むことになった。1998年度,幸いにも日本分析化学会(JSAC)学会賞を受賞できたのを契機として,卒研生・院生の研究テーマは本人が希望するものとした。こうした理由は,理大生は各自やってみたいテーマをもっており,またそれを遂行する能力があることが分かったからである。その結果,数年後には研究室のテーマが美白,化粧品,保存剤,環境汚染,水虫,遺伝子組み換え食品,テロメア,DNAによる個人識別など多岐にわたり,指導する立場の筆者と助教1名にとっても,その分野の先端研究の現状を強制的に勉強させられる有難い結果となった。こうした状況は定年まで続いたが,2000年度にはJSAC関東支部長,2009-2012年度にはJSAC会長となったことから,筆者の注力も研究から教育に次第にシフトして行くことになった。新世紀賞(関東支部)やJSAC分析士認証制度の創設がその代表例である。後者はLC,LC/MS,ICのスキルを初段から五段に分けて学会が認証評価する制度であり,2010年にスタートして以来,2016年度までに2000名近くの有資格者が誕生している。島津製作所には,スタート時よりLCとLC/MSの初段等の試験場を提供戴いているが,2017年度からは東京に加えて京都においても初段試験会場を提供して戴けることになり,感謝に堪えない。また,LCtalkには試験情報をその都度案内戴いており,重ねて御礼申し上げたい。

おわりに
 最近,高圧ガス保安法が緩和されたことに伴い,SFE/SFCに再び大きな関心が寄せられている。筆者は,1980年代にはバイオイナートな二酸化炭素超臨界流体の特性に鑑みて,液体抽出では濃縮時に分解ないし失活してしまう新規活性物質(存在量:現在知られている最小濃度物質の1ケタ下)がSFEによって発見できるのではないかと発想したが,雑用に追われて実現できなかった。どなたかに本気でチャレンジして貰えれば幸いである。また,ビフィズス菌の必須栄養素となるパンテテイン(PanSH)とシステイン(CySH)のミックストジスルフィド(PanSSCy)の単離精製は,当該画分を濃縮する過程で再開裂(下式)と2種の生成チオールの対応するジスルフィドへの酸化など複雑な反応により困難を極めたが,このような平衡反応系へのSFCの適用にも期待がもたれる。
  PanSSCys + 2H ⇌ PanSH + CySH

(2017年6月22日 記)

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