vol.35 グローブボックス中に設置した小型FTIRによるリチウム2次電池電解液の分光解析

FTIR TALK LETTER
伊藤 隆 先生

2020年9月 発行
 伊藤 隆 先生
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東北大学 学際科学フロンティア研究所 准教授

(ご所属・役職は2020年9月発行時)

 

1.はじめに

  振動分光法であるラマン・赤外分光法は多くの分野で利用され,組成や構造の解析に大きな役割を果たしている1)。特に,赤外吸収分光法は,装置の高性能化と小型化が進み,簡便に利用できる分光法となっている2)。これだけ身近な測定法になると,研究者・開発者の希望として「これは測れるか,この状態で測れるか?」という要望が多々出てくる。筆者の専門は電気化学であり,2次電池の電極における電気化学反応の「その場分光測定」を行っている。「その場分光測定」とは,リチウム2次電池の充放電時における電極の構造変化を逐一追跡する測定法である。これまで,ラマン・赤外分光法によるリチウム2次電池の正極や負極の界面における電極反応解析を行い,電池の高性能化の一助に繋げることができている3)。リチウム2次電池関連の電池構成要素は,大気中の酸素や水分の影響を受けると電池特性に大きな影響をもたらす。可能であるならば,電池構成要素を酸素や水分の影響を受けない環境下でのハンドリングを行い,キャラクタリゼーションを行うことが望ましい。本稿では,極低水分量,極低酸素量なグローブボックス内に小型FTIRを設置し,リチウム2次電池関連の電解液の赤外吸収スペクトルの測定を行った。大気中における測定との比較を行い,大気から電解液の受ける影響や,グローブボックス内における赤外吸収測定の考慮する点などについて述べる。

2. 大気中と不活性雰囲気下におけるFTIR計測

 通常,測定機器等の実験装置は,大気中に設置することが一般的である。しかしながら,特殊な環境下における物質の諸物性を計測する必要が多々見受けられ,高温・低温下や高圧・真空下等における物性計測を行う必要が生じる。その際は,特殊な環境セル中に試料を仕込み,試料のみを必要とする環境下に置き測定に供することが多い。しかしながら,大気中からの水分や窒素,酸素の影響を完全に取り除くことは難しく,測定結果に大きく影響することも少なくない。この大気からの影響を少なくする方法として測定機器全体を求める環境下に設置することにより大気からの機器や試料への影響を少なくすることができる。
 筆者の研究室では,低露点・低酸素濃度のアルゴン雰囲気のグローブボックス内に小型FTIRを設置し,スペクトル測定に供している。図1にグローブボックス内に導入した小型FTIRの状態を示す。グローブボックス内は,高純度アルゴン雰囲気であり露点-70度(水分量2.58ppm)以下,酸素濃度0.3ppm以下に制御されている。このような雰囲気下で測定器を稼働させると,大気中に存在する水蒸気や酸素の影響を少なくしたスペクトル測定が可能となる。大気中からこのような低露点・低酸素濃度のアルゴン雰囲気下に物品・装置を持ち込むと露点や酸素濃度の上昇がみられる。物品・装置に付着もしくは物品・装置内部に存在している酸素や水分による影響と考えられる。物品・装置の雰囲気を真空や高温にすることにより,酸素や水分を除去することが可能であるが,物品・装置自体をこのような環境下に持ち込むことは実質上不可能なことが多い。実際には,低露点・低酸素濃度のアルゴン雰囲気に長期間暴露し,酸素・水分除去するガス循環精製装置により雰囲気ガスを循環させ,ボックス内の酸素や水分をアルゴンに置換することにより低露点・低酸素濃度のアルゴン雰囲気を作ることが一般的である。この装置を持ち込んだ状態で低露点,低酸素環境を作り出すには,グローブボックスの容積(気積)やガス循環精製装置の性能にもよるが,数日から1か月を要する場合もある。

図1

図1 グローブボックス内に導入した小型FTIR 

 次に,アルゴン雰囲気グローブボックス中と大気中におけるFTIRスペクトルの測定を行い,スペクトルの比較を行った。FTIRは通常,装置を大気中に設置し試料の測定を行うので,大気中もしくは真空中の光学特性を利用してFTIR測定を行っている。アルゴン雰囲気中では,アルゴン雰囲気の諸物性に従う必要があり,大気中では見られない様々な問題を有する。例えば,アルゴンと大気の熱伝導は異なるので,装置の排熱機構が正常に機能しなくなり,正しいFTIRスペクトルを得ることができなくなる可能性がある。これを回避するため,本システムにファンを利用したシステムを装着することにより,良好な排熱を促すことができた。また,アルゴンガスと大気の光学特性も大きく異なる。この影響を確認するために,大気中とアルゴン中で実際にFTIR測定を行い,スペクトルの比較を行った。図2にグローブボックス中(上)および大気中(下)における1M LiPF6を含むEC(エチレンカーボネート)+DEC(ジエチルカーボネート)(3:7)電解液のFTIRスペクトルを示す。この電解液は,リチウム2次電池に一般的に用いられている有機電解液である。アルゴン雰囲気グローブボックス中と大気中における各々のスペクトルは,ほぼ同様のスペクトルを示しており,グローブボックス中や大気中であっても良好なFTIRスペクトルが測定できていることを示している。前述のアルゴン雰囲気による光学特性や排熱機構の問題等は見受けられず,正常なFTIRスペクトルをえることができている。水分や酸素の影響をさらに詳細に調べるために,図2のスペクトルの高波数領域の解析を行った。結果を図3に示す。グローブボックス中(上)および大気中(下)における1M LiPF6を含むEC+DEC(3:7)電解液の高波数領域のFTIRスペクトルである。2800 ~ 3100cm-1の領域には電解液の-CH伸縮振動に起因する吸収線が両FTIRスペクトルに明瞭に観測されている。また,両スペクトルにおいて,3400 ~ 3700cm-1の領域にブロードな吸収または,スペクトルのふらつきが見られている。特に,大気中のFTIRスペクトルに明瞭にブロードな吸収が現れており,振動数の上で熟考すると,水分子のOH対称伸縮振動とOH逆対称伸縮振動に帰属することができる。水分子の赤外線吸収は,非常に大きく,微量の水分でも観測できる場合があり,大気中や試料中に存在する水分を鋭敏に捉えている結果として大気中のFTIRスペクトルに現れていると推測される。

図2

図2 1M LiPF6を含むEC+DEC(3:7)電解液のFTIRスペクトル

図3

図3 1M LiPF6を含むEC+DEC(3:7)電解液のFTIRスペクトル(高波数領域)

 グローブボックス内の容積(気積)は小さく非常に乾燥している環境であるので,試料自体が揮発し易い。また複数の試料を続けて測定する場合は,ATR上の測定後の試料を除去するためにATRクリスタルを有機溶媒等で洗浄する必要がある。本測定において,試料交換時は,ATR結晶をアルコールでふき取り,前の試料の影響を次に測定する試料に影響を及ぼさないようにしている。図4に20個の試料測定後(約3時間の測定後)のEC+DEC(3:7)電解液のFTIRスペクトルを示す。図4のFTIRスペクトルにはECやDECに起因する吸収線に加え,3600 ~ 3700cm-1の振動数領域に新たな吸収線が観測されている。振動数領域を考慮すると,3600 ~ 3700cm-1の吸収線は,アルコールに起因するOH伸縮振動に帰属することができる。アルコールはグローブボックス内に揮発拡散する。ガス循環精製装置によりアルコールの除去は行われているが除去が追い付かず,アルゴン気積が比較的小さいボックス中に高濃度で気体となって存在してしまう。結果としてFTIRスペクトル上に気体の洗浄用有機溶媒の吸収線が現れてしまい,洗浄用有機溶媒等の揮発の影響を大きく受けることとなる。試料をキャップ付きの光学セルを用い,透過配置でスペクトルを測定する場合は問題とならないが,キャップなしの条件で測定を行う場合は試料の揮発に注意する必要がある。一般的にFTIRスペクトルは,測定した実際のスペクトルを試料なしのバックグランドスペクトルにより補正したスペクトルを用いている。図4では,測定の3時間前のバックグランドを使用しており,3時間前のバックグラウンドスペクトルには揮発した洗浄用有機溶媒の影響が加味されていない。このバックグランドスペクトルの測定を試料スペクトルの直前に行うことにより,洗浄用有機溶媒等の影響を最小限に抑える補正を行えるが,洗浄用有機溶媒の量を極力減らなど,揮発の影響を最大限考慮したスペクトル測定が必要である。最近は,ダイヤモンドクリスタルを用いた全反射測定法が一般的となっており,数滴程度の非常に少ない試料の量で測定が可能となっている。試料が少量であるために,少量の混入物でも赤外吸収スペクトルは大きく変化するので注意が必要である。

図4

図4 1M LiPF6を含むEC+DEC(3:7)電解液のFTIRスペクトル(20個の試料測定後)

3. 不活性雰囲気下におけるリチウム2次電池用電解液のFTIR 計測

 リチウム2次電池の電池構成要素に対し,大気中の水分や酸素は鋭敏に反応し,性能に大きく影響する。電解液は有機電解液を用いており,その水分量は厳重に管理されている。本節では,このリチウム2次電池の電解液を不活性雰囲気下に設置したFTIRによるキャラクタリゼーションを行った。図5に,1M LiPF6を含むEC+DEC(3:7)電解液(赤)とEC+DEC(3:7)(黒)のFTIRスペクトルを示す。これらの測定は,グローブボックス中に持ち込んだFTIR装置にて測定を行ったものである。両スペクトルとも良好なスペクトルを示しており,各種成分に応じたFTIRスペクトルを示している。図中に示す赤黒の矢印は各成分に特徴的な吸収線を抽出してあり,吸収線の有無や吸収量の大小の変化が見られている部位を示している。2つの試料の違いは,LiPF6の有無のみであり,LiPF6由来の吸収線の有無のみが違いとして出現するはずである。2つのFTIRスペクトルの差を浮き出させるために,2つのFTIRスペクトルの差スペクトルを図6に示す。551.9cm-1,719.8cm-1,775.0cm-1,833.9cm-1に吸収強度の違いが現れている。この代表的な4本の吸収線は,LiPF6の振動モードだけでは説明することができない。700cm-1から1000cm-1の振動数領域ではECあるいはDECとリチウムイオンが溶媒和した特徴的な振動モードが観測されることから4),4本の吸収線はECあるいはDECとリチウムイオンが溶媒和した特徴的な吸収線であることを推定することができる。このように,グローブボックス中に持ち込んだFTIR装置による電解液のキャラクタリゼーションも比較的短時間で測定が可能となり,水分や酸素の影響を受けることなく高精度な測定ができている。 

図5

図5 1M LiPF6を含むEC+DEC(3:7)電解液(赤)とEC+DEC(3:7)(黒)のFTIRスペクトル

 
図6

図6 1M LiPF6を含むEC+DEC(3:7)電解液とEC+DEC(3:7)の差スペクトル

4. まとめ

 本稿では,極低水分量,極低酸素量なグローブボックス内に小型FTIRを設置し,リチウム2次電池関連の電解液の赤外吸収スペクトルの測定行い,大気中における測定との比較を行った。さらに,大気から電解液の受ける影響や,グローブボックス内における赤外吸収測定の考慮する点などについて述べた。グローブボックスのユーザーとしては,グローブボックス内に測定機器を導入すると,水分量および酸素量が上昇するのであまり好ましくない印象をうける。しかしながら,グローブボックス内への測定機器の導入は大きな可能性を有しており,大気中では測定の難しい測定も機器の適切な導入が完了していれば,大気中と変わりなく比較的容易にFTIR測定を行うことができる。さらに,1つのグローブボックス内で材料の合成からキャラクタリゼーションまで大気に暴露することなく一貫して材料開発を行うことも可能となる。高価な装置をグローブボックスへ導入することは少々荒っぽい印象と受けとられがちであるが,得られる情報量の大きさと質は計り知れないものになると筆者は考えている。

参考文献

  • 1) N. B. Colthup, L. H. Daly and S. E. Wiberley, Introduction to Infrared and Raman Spectroscopy Third Edition, Academic Press Inc. San Diego, CA, 1990.
  • 2) P. R. Griffiths and J. A. de Haseth, Fourier Transform Infrared Spectroscopy, Wiley & Sons Inc., Hoboken, NJ, 2007.
  • 3) 伊藤 隆,電気化学反応のその場ラマン分光法,電気化学, 87 (Spring), 2019, pp43-56.
  • 4) 森田昌行,ラマン分光法による溶媒和構造の研究,Electrochemistry, 81(12), 2013, pp991-994.

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