vol.2 FT-IRの偶然と必然

FTIR TALK LETTER
石澤 広明 先生

2004年4月発行
石澤 広明 先生

信州大学 繊維学部


(ご所属・役職は2004年4月発行時)

KrutzとBellonがATR赤外分光法による残留農薬計測について発表したのは1991年初夏・ダラスで開催されたIFT年次大会でのことである。もし二人がこの発表をしなかったら,そして,彼らが論文を送り届けることを忘れてしまっていたら,私はATR赤外分光を用いた残留農薬計測に関する研究を始めることはなかった。そして,この拙文を執筆することはなかったに違いない。このような経験は多くの読者にも覚えのあることと思われる。たとえば,ニーズに追い立てられながらシーズを懸命になって探し求めている時に,得てしてこのような体験をするように思われる。ある計測を実現したいと考え続けてきた二人の大学院生が,とある研究会の発表から重大なきっかけをつかむことができ,いろいろ調べてみたらまだ世の中にない計測法になりそうだということがわかって欣喜雀躍するなどは,最近私たちの講座で起こった例である。十数年前の私もそうであった。農産物,特に生で摂取する野菜類の残留農薬を迅速かつ簡易に測定できないかというニーズにひとつの解答を示された思いがしたのである。 本文では,このように偶然に出会ったATR赤外分光法から始まったFT-IR応用研究の経過を紹介し,最近取り組んでいる研究にも触れる。本文が読者諸氏に何らかの参考になり,あるいは諸氏の抱えているニーズに対応して何らかの突破口をひらくきっかけを提供できればと願っている。

食の安全性
 農作物の生産・流通において,残留農薬に関する安全性は重要な品質要因となっている。使用が認められていない農薬が残留していた,あるいは安全基準(いわゆる)をはるかに超えたレベルで残留農薬が確認されたなどのニュースは記憶に新しく,産地サイドにとっては生産の存続にかかわる問題であるばかりでなく,私たち消費者にとってもけっして見過ごすことができない重要な問題である。もはや社会問題といっても大げさではない。こうした作物の残留農薬に関して,化学的な分離分析法による測定法が公定法として規定されている。農薬を登録申請する際にはこの分析法がセットになっている必要があることも広く知られている。しかしながら,これら分離分析法は,測定対象によって抽出,分離,精製,定量などが異なることによって,迅速ではない,一定以上の熟練を必要とする,消耗資材が多様でコストがかさむ,あるいは初期投資が大きいなどの課題を内包している。したがって,公定法を繰り返すのみでは,作物が流通を始める前に残留農薬を測定し安全性を確保し消費者の食卓に届けたいという産地のニーズに対応することは困難である。さらにまた,基本的に小規模で慢性的に人手不足の産地自身にとって,自らの作物の残留農薬を継続的に計測しようとする際に,必要となる経営資源が多大でリスク大きいという点が決定的なマイナス要因となってくることは想像に難くない。このような背景から,簡易で迅速に作物の残留農薬を測定し,栽培や出荷判断に役立てたいという計測ニーズが起こったといえる。

ATR赤外分光法の適用

図1 ATR赤外分光法による残留農薬計測の概要

図1 ATR赤外分光法による残留農薬計測の概要

 ATR赤外分光法(全反射減衰赤外分光法)は,試料表面層での赤外線の吸収情報から,試料の化学状態を検出する方法である。図1にATR赤外スペクトル測定の野菜類への適用の概要を示す。試料葉片はATRプリズムに密着している。干渉光がプリズム内を導波する間にエバネッセント光が試料表面において吸収される。この吸収光が,試料の残留農薬に関する情報を含んでいると考えられる。すなわち,農薬の有効成分によって,吸収される赤外線の波長が異なり,農薬の濃度が吸収の強弱になってスペクトル上に現われることを利用したものである。冒頭に述べたKrutzらの発表もこの原理にもとづいている1)。この方法がppmオーダーの残留農薬測定に対応できるのか,しかも測定対象は不均一な農作物である。誰しもがこの点を問題とするであろう。紙面の都合で詳細は参考文献にゆずるが,結果として,試料葉片の切り出し方を一定とし(図1),かつ反射回数の多いATRプリズム(たとえば,Spectra Tech. Inc.製水平型ATR)を用いることにより最も良好な結果を示すことが明らかになった2)。また,測定したATRスペクトルにPLS回帰分析をほどこしたところ,安定した検量線が得られることも明らかになった3)。これらの結果をもとに,(社)長野県農村工業研究所,島津製作所等が中心になり本手法の工業所有権を確保し4),現在長野県の主要な野菜産地において残留農薬の簡易非破壊計測として実用段階に移行している。
 このようにATR赤外分光法は,(1)測定時間が約10分という迅速性,(2)熟練を必要としない簡便性,(3)格段の消耗資材を必要としない低コスト性などの点で農作物生産の現場計測ニーズに対応したものであった。しかしながら,果実類や穀類などプリズム面に密着できない試料には適用が困難である,あるいは試料葉片を切り出し,測定ごとにプリズムを洗浄する必要があるなど効率面で問題点も残されている。また後者の問題点は,測定の安定性にも影響することが指摘されている。

拡散反射赤外分光法の適用

図2 拡散反射赤外スペクトル測定システムの概要

図2 拡散反射赤外スペクトル測定システムの概要

図3 レタスおよび農薬有効成分標準試料の

図3 レタスおよび農薬有効成分標準試料の 拡散反射赤外スペクトル

(a)安全基準値を超える試料
(b)未検出試料
(c)殺虫剤フェンバレレート標準試料
(d)殺虫剤メソミル標準試料
(e)殺菌剤ベノミル標準試料

 前述のATR赤外分光法の問題点を踏まえると,拡散反射型FT-IRが残留農薬測定に適用できないだろうかと考えることは必然的といえるかもしれない。そこで,1999年から現在にいたるまで,私の研究室ではこの手法を主要なテーマのひとつとしている。 図2に拡散反射法によるスペクトル測定の概要を示す。FT-IRを基本に,Pike Technologies社の Upward Looking Diffuse Reflectanceアタッチメントを装着した構成である。レタスを試料とする場合,側面外葉の中央を測定部位としている。この際,ATR赤外分光法の場合のように葉の切片を切り出して装着する,および測定ごとにプリズム面洗浄する必要はなく,試料を載せて試料台の高さを調整することが測定準備のすべてである。このようにして測定したレタスの拡散反射スペクトルの例を農薬成分の特性吸収と比較して図3に示し,対応する一次微分スペクトルを図4に示す。また,表1に対象とした農薬成分の特性吸収波数を示す。農薬が安全基準を超えて残留している試料の一次微分スペクトルにおいては,農薬の有効成分の特徴が確認できる(図4矢印)。なお,スペクトル測定条件は,ATR赤外分光の場合と同様分解能2cm-1,および積算回数100回である。拡散反射スペクトルを水の吸収帯で規格化処理したスペクトル,および一次微分スペクトルを用いて,それぞれPLS回帰分析により検量線を作成した結果を表2に示す(試料数:40)。一次微分スペクトルを用いて作成した検量線の方が,規格化スペクトルの場合より精度が良好であることが判明した。一次微分スペクトルを用いた場合のPLS検量線の散布図を図5に示す。殺菌剤ベノミル,殺虫剤フェンバレレート,および殺虫剤メソミルの安全基準値は,それぞれ0.8ppm,2ppm,および0.5ppmである。ベノミルおよびフェンバレレートでは,PLS検量線の標準誤差は,安全基準値に対して2割程度である。一方,メソミルの場合は,標準誤差は基準値より大きくこの比率は過大である。PLS検量線を用いて,安全基準を超えていない試料を判別する上でメソミルの検量線については改善の必要があると考えられる。ベノミルおよびフェンバレレートでは,PLS検量線をもとに,試料の安全性を確認できる可能性が見出せる。すなわち,安全基準値に対して危険率を乗じた閾値(たとえば係数0.8を乗じた値)を設定し,検量線による予測値との比較によって安全性を確保する手法5)が考えられる。このように危険率を設定することは,安全基準値を超える可能性の高い未知試料を「基準値以下」と誤判別する第二種の過誤を回避できる。
 以上のように,拡散反射FT-IRはATR赤外分光法に比較して,(1)試料形体を選ばない,(2)ATR赤外分光法より簡便で効率的である,(3)測定精度の向上が期待できるなどの特徴が確認された。なお,本手法については,島津製作所と共同出願したところである6)。 農薬は多種多様である。このため,残留している農薬を定量前に判別(スクリーニング)したいというニーズが起こっている。このニーズに対して,赤外スペクトルの特徴を抽出し,農薬成分のデータベースから検索するなどが考えられ,現在検討を進めているところである。このスクリーニングとPLS検量線群が対になった姿が,本計測システムの最終的な姿といえるかもしれない。

図4 一次微分スペクトルの比較

図4 一次微分スペクトルの比較

図5 一次微分スペクトルのPLS検量線

図5 一次微分スペクトルのPLS検量線

表1 農薬有効成分の特性吸収

農薬成分 波 数 (cm-1)
ベノミル 1735 1640 1388
フェンバレレート 1697 1674 1623 1488
1427 1389 1230
メソミル 1565 1244 1157 1093

表2 PLS検量線の比較

  スペクトル処理
農薬成分 規格化
(1640cm-1
一次微分
f r SEC f r SEC
ベノミル     0.75  0.56     0.96   0.19 
フェンバレレート   0.56 0.43   0.90 0.28
メソミル 3 0.80 1.02 5 0.98 0.62

f: 最適因子数
r: 相関係数
SEC: 標準誤差

おわりに
 FT-IRと出会って十数年が過ぎた。出会いは幸運な偶然と言えるものであった。その後の経過は読者にとって,きっと必然的な流れと感じられただろうし,何ら新しいことはないと感じられるかもしれない。しかしながら,これまで実験室レベルで使用されてきたFT-IRを農業の生産現場直近にまで持ち出すことに成功した例は多くはないと自負している。ニーズとシーズが幸運にも適合した例としてお読みいただければ幸いである。この計測法がさらに進歩して,より多くの適用例を獲得することを願っているし,そのための研究を推進したいとも考えている。残留農薬に限定せず,織物欠陥への適用7),8)や生体関連への適用9)などについても興味深いところであるが,別の機会に紹介することとしたい。また,本研究では,赤外スペクトルを用いて残留農薬量を検量する目的で,まず重回帰分析を適用し,主成分分析を経てPLS回帰分析を適用するにいたった。この経過は割愛したが,これも偶然と必然の賜物であったことを記しておきたい。この分野の発展にも大きな期待を持っている。
 おわりにあたり,本文で紹介した研究は,島津製作所・分析計測事業部スペクトロビジネスユニットの田島孝博氏をはじめとする多くの方々の理解と協力がなければ実現できなかった。紙面を拝借してあらためて心より感謝申し上げる。

  1. Gray Krutz, Veronique Bellon: Pesticide Measurement on Fruit and Vegetable Surfaces, Proceedings of the 1991 IFT Annual Meeting, 180 (1991)
  2. 石澤,中村,松澤,高野,鳥羽:全反射減衰赤外分光法による野菜農薬残留量の迅速計測,計測自動制御学会論文集, Vol.29, No.8, 993/999 (1993)
  3. 石澤,鳥羽,中村:全反射減衰赤外分光法によるハクサイ残留殺虫剤の非破壊計測, 農業機械学会誌, 62(6), 106/114 (2000)
  4. 残留農薬分析方法,特許第3315546号
  5. Hiroaki Ishizawa, Toyonori Nishimatsu, Eiji Toba: Measurement of Pesticide Residues in Food Based on Diffuse Reflectance IR Spectroscopy, IEEE Transactions on Instrumentation and Measurement Vol.51, No.5, 886/890 (2002)
  6. 農薬分析法, 特願2003-117375
  7. 常定,川野,光石,久保川:ATR/FT-IRによる油性物質の迅速分析,織消誌, Vol. 43, No.2, 130/139 (2002)
  8. 児山,石澤,西松,鳥羽:繊維製品の清浄度計測システムのための赤外・近赤外分光法による基礎的研究,日本繊維機械学会第56回年次大会,研究発表論文集, D-9, 200 (2003)
  9. 藤田,酒井,田村,兼子ら:赤外分光法を用いた非侵襲血糖値測定センサの開発, Proceedings of 32nd Meeting on Lightwave Sensing Technology, LST32-9, 65/70 (2003)

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