vol.1 FT‐IRの過去・現在・未来

FTIR TALK LETTER
尾崎 幸洋 先生

2003年9月発行
尾崎 幸洋 先生

関西学院大学 理工学部


(ご所属・役職は2003年9月発行時)

FT‐IRが市場に出始めておおよそ30年になる。この間,世界中でどれほどのFT‐IRが生産されたであろうか。おそらく数万台のFT‐IRが現時点で活躍しているのではないであろうか。FT‐IRは20世紀が生んだ計測器の中でも傑作中の傑作と言ってよいであろう。その与えたインパクトははかりしれない。またこれほどコストパフォーマンスのすぐれた機器もめずらしい。「一課に一台FT‐IR 」と言われたことがあるが,今では「一課に三台」くらいであろう。FT‐IRは1980年代半ばから全盛期に入ったが,今でも全盛期である。そしてこれからも当分全盛期であろう。私は幸い大学院1年生のとき(1973年)からFT‐IRに接する機会があった。まさにFT‐IR世代の一人である。本稿ではFT‐IRの4半世紀を振り返るとともに,近未来のFT‐IRについても考えてみたい。

1970年代のFT‐IR
 私が最初に出会ったFT‐IRは,厳密にはFT‐IRではなくFT‐FIR(far-infrared; 遠赤外)であった。私はなぜ“FTなのか”についても十分理解していなかったが,何か新しいものが研究室に入ってきたということで,毎日いろいろなスペクトルを測定してみた。しかし正直言ってしだいにこの器械にがっかりした。あまりにもリップルが大きく,どれがバンドで,どれが“おばけのピーク”なのかよくわからないということがしばしばあった。最初は使っているうちに慣れれば(条件さえ見つければ),何とかなるだろうと思っていたのだが,状況は改善されなかった。こういうわけでFTに対する私の第一印象は必ずしもよくなかった。当時は分散型の赤外分光器がかなり高いレベルに達しており,少し時間はかかるが満足なスペクトルを得ることができた。
 私のFT‐IRとの2度目の出会いは,1978年カナダのNational Research Council (NRC)においてであった。私はそこのポスドクで,主に共鳴ラマンを用いて酵素反応機構の研究を行っていたが,モデル化合物のラマンスペクトルとの比較という意味で赤外スペクトルをFT‐IRを用いて測定していた。当時NRCにはすでにFT‐IRが何台かあり,FT‐IR時代の到来を予感させるものがあった。NRCではFT‐IRを用いて,気体の高分解能赤外スペクトル測定や生体物質の水溶液の赤外スペクトル測定などが行われており,FT‐IRの優位性が認識され始めていた。私が使っていたのはHenry Mantsch らのグループのものであったが,彼らはFT‐IR,FT‐IRとときにはお祭り騒ぎであった。ともかくNRCはFT‐IRの世界の中心の一つであり,私は恵まれた環境の中でFT‐IRを学んだ。
 この頃のFT‐IRはタタミ3畳分くらいの大きさのもので,干渉系の部分とそれにつながる駆動部がやたら大きかった。コンピューター部分も言うまでもなく,かなり大きなものであった。赤外セルはもちろんかなり小さなものであるから,小さなセルをその何百倍もの大きさのものの中においてスペクトルを測定するということであった。

1980年代から1990年代へ
 1980年代に入ってやや遅れをとっていた日本にもFT‐IRの時代がやってきた。振動分光学の基礎や応用で常に世界をリードしてきた日本がなぜFT‐IRで遅れをとったのか,私は理由としては2つあると思う。一つは振動分光学を専門にしていた大学の研究者たちの興味が,ラマンに傾いていていたということである。共鳴ラマン,非線型ラマン,表面増強ラマンなど学会はラマンでわいていた。第二の理由として,日本の分光器メーカーが非常に完成度の高い分散型の装置を作っていたということもあると思う。その分,分散型からFTへの転換が遅れた。FT‐IRが大型でしかもかなり高価な輸入品であったため,多くの研究技術者がすぐに高性能の分散型からFTへ乗り換える必要性をあまり感じなかったのである。
 1980年代半ばからFT‐IRは急速に普及した。多くの国内外のメーカーがFT‐IRに参入し,価格はどんどん下がり,性能はどんどん上がった。FT‐IRの講習会やユーザーズミーティングがあちこちで開かれ,どの会場へ行っても満員盛況の様相であった。FT‐IRの講習会さえやれば,学会の予算も黒字になるといった学会まで出てきた。世の中のバブルとともにFT‐IRはますます発展した。FT‐IRの人気が急上昇した原因としては次のようなことが考えられる。1)(1)分散型ではなかなか難しい顕微赤外が非常に容易に使えるようになり,微量,微小(少)分析に新しい時代を切り開いた,(2)大量の試料のスピード処理という時代の要請に答えた,(3)縦軸,横軸の精度が非常によくなった。また希薄溶液(水溶液を含む)などの測定も出来るようになった。コンピュータの発展がFT‐IRの急成長を支えたということは言うまでもない。
 1989年私は現在の関西学院大に移り,自分自身の研究室を持つことになった。そこには先任の教授が残した某メーカーのFT‐IRがあった。初めての卒研生たちは皆喜んで熱心に赤外スペクトルの測定を行った。一人の4年生はわずか1層のラングミュアーブロジェット(LB)膜のきれいなスペクトルを測定し,得意そうであった。もう一人の4年生は1×10-5Mというかなり希薄な濃度でクロロフィルのスペクトルを測定した。FT‐IRは研究者の卵たちを大いにencourage した。FT‐IRのおかげで研究室も発展した。この頃からFT‐IRの小型化が進み,またパソコンの発展とともに測定がさらに容易になった。ケモメトリックスや二次元相関分光法などデータ処理の研究も活発になってきた。
 1993年,東大で第1回のInternational Symposium on Advanced Infrared Spectroscopy (AIRS) が開催された。この会議は,時間分解赤外分光法や動的赤外二色性を用いた種々の応用例や一般化二次元相関分光法を用いた研究例が発表されるなど,その後の赤外分光(FT‐IR に限らない)の発展の契機となる重要なものであった2)

1990年代後半-現代
 この数年間のFT‐IRの進歩をまとめてみよう3)
 まずハード面から考えると,(1)時間分解赤外分光法のさらなる発展-ナノ秒オーダの時間分解測定が容易に行なえるようになった。(2)赤外顕微鏡の高性能化。オートステージ・CCDカメラ搭載の赤外顕微鏡が一般化しつつある。さらにマッピングとイメージングの進歩。(3)電場変調分光法,偏光変調方式による高感度反射法,外部反射法などの発展。(4)広範囲な波長域を一台でカバーできる装置の開発。広い意味で赤外域は12500-10 cm-1を言うが,この全領域あるいは25000 cm-1からの領域を一台でカバーする装置が現れた。(5)半導体分析専用FT‐IR,FT‐IRガスモニタシステム,膜圧計測計,薬物識別装置など種々の専用器が大きく発展した。ポータブルFT‐IRもいくつか市販された。
 ソフト面では,数多くのスペクトル解析ソフトが開発された。また,(1)ケモメトリックスを用いて情報を抽出する技術,たとえば主成分分析による赤外イメージデータ処理なども常識化しつつある。(2)故障の自己診断,付属装置の自動認識機能などFT‐IRの全般的な人工知能化,自動化などが進みつつある。

近未来のFT‐IR
最後に近未来のFT‐IRについて考えてみよう。10年程前に,21世紀に入ればFT‐IRは下火になる,マルチチャンネル型検出器の進歩とともに再び分散型の時代がやってくるだろうという意見が一部にはあった。私はこの意見には賛成できなかったが,何か新しいタイプの分散型が登場し,ある程度FT‐IRと分散型の併用の時代が来るのではないかと考えていた。結果は大きくはずれて今でもやはりFT‐IR全盛時代である。これからも当分,FT‐IR全盛時代が続くであろう。これほど安価でしかも働きものに替わる赤外分光器はそう簡単に作れそうにない。

図1.今後のFT-IRの展開の方向

図1.今後のFT‐IRの展開の方向

図1は今後のFT‐IRの展開の方向を示したものである。一つは測定波数域の拡大とくに近赤外域(12500-4000 cm-1)でのFT分光器の発展である。FT‐NIRはすでに1990年代後半から普及しているが,最初はFTIR/NIRというタイプのものが多かったが,これからはFT‐NIR専用器が増えてくるであろう。これから大いに進歩しそうなのはFT‐IRイメージングである。もともとFT‐IRが大発展した原因の一つは顕微赤外であったが,顕微赤外→マッピング→イメージングという形で顕微赤外技術が進歩しつつである。需要も非常に多い。顕微赤外における大きな課題は,空間分解能をもう一ケタ上げることである。今後,近接場赤外分光が次第に普及してくるであろう。
 もう一つ注目されるものとして赤外円偏光二色性(VCD;vibrational circular dichroism)がある。VCDはROA (Raman optical activity) とともに振動スペクトルの解析や応用を大きく進歩させる可能性がある。時間分解赤外分光法はミリ秒からフェムト秒までいろいろあるが,今後も分散型とFT‐IRの使い分けとなろう。
 FT‐IRの応用面では,オンライン分析,品質管理,フィールド分析,臨床医学,環境分析への応用などがさらに一層進むであろう。そのための専用器もいろいろと作られるであろう。
 最後にこれはFT‐IRそのものの進歩ではないが,それに大きく関係してくるものとして,スペクトル解析や情報抽出を容易にする密度汎関数法,ケモメトリックス法4),二次元相関分光法2),3)などがますます進歩しそうである。ともあれ超微小,超微量,超高速,超薄膜などFT-IRの“超の世界”への挑戦は今後も続きそうである。

  1. 田隅三生編著,落合周吉,加藤裕志,古川行夫,増谷浩二著“FT‐IRの基礎と実際 第2版”(東京化学同人,1994年).
  2. Appl. Spectrosc. Vol. 47, No. 9 (1993).
  3. A. A. Christy, Y. Ozaki, and V. G. Gregoriou, Modern Fourier-Transform Infrared Spectroscopy, Elsevier, 2001.
  4. 尾崎幸洋,宇田明史,赤井俊雄“化学者のための多変量解析”(講談社サイエンティフィク,2002年).

関連情報

Top of This Page