質量分析法を使った新たなドーピング検査への取り組み

スポーツビジネスの拡大によってドーピングの社会的な影響は大きくなっています。その上で情報技術の普及によって日々さまざまなドーピング手法が登場しており,そのために新たなドーピングに対する検査方法の開発は健全なスポーツの発展には必要不可欠となっています。今回は新しいドーピング検査法の開発に意欲的に取り組まれ大きな成果を上げられている財団法人日本分析センターアンチ・ドーピング研究所を訪問し,ドーピング検査の現状と共に,質量分析法を中心とした新たなドーピング検査についてお話をお伺いしました。

今回のCustomer

財団法人 日本分析センター アンチ・ドーピング研究所
所長
医学博士
植木 眞琴 様

※掲載内容(所属団体,役職名等)は取材時のものです。

財団法人 日本分析センター アンチ・ドーピング研究所様 Webサイト

インタビュー

新しいドーピング検査手法の開発に注力されているということですが,まずはこれまでの検査手法について教えていただけますか?

これまでは,特定の目的物質に分析条件を設定し,自動的に検出同定するTargeted analysisといわれる分析が主流でした。このような手法はオリンピックのような大規模国際競技会で多数のドーピング物質を対象に感度の良い迅速多検体分析を行う上できわめて有効なのですが,毎年次々と新しい禁止物質が検査対象に追加されるため,大規模大会では薬物の性質ごとに分類し,50台もの装置を並べて人海戦術で分析を行わなければなりません。 Targeted analysisは,興奮剤や麻薬性鎮痛剤などの古典的な物質を対象とする分析手法として重要で,ドーピング検査の6割~7割は今でもこの手法で行われています。

そういった分析にはどのような分析装置が使われているのですか?

GCMSです。当研究所ではいくつかのメーカーのGCMSを使用していますが,島津さんのGCMS-QP2010Ultraも頻度高く使用しています。Targeted analysisを効率的に実現するためには,目的物質に併せて検出条件や測定イオンを分析途中で自動的に切り替え,保持予測に基づいて検出された物質を自動的に同定できる機能が不可欠です。そのためには装置の頑健性や,装置性能を引き出すためのエンジニアとの情報交換が重要で,島津製品の高速性,安定性,さらにはアフターサポートも信頼しています。しかし一方で,我々はTargeted analysisの制限を打開すべく技術革新を目指して日々の研究を進めています。

それはどういった制限なのでしょうか?

Targeted analysisの制限は,あらかじめ目的物質を設定し,事前に測定条件を最適化しなければならないという点から由来するものです。たとえば,最近社会問題化している脱法ドラッグやデザイナードラッグと言われる無承認医薬品は既存のドラッグの構造をほんの少し変化させた化合物で,多くの場合,何らかの生理作用を維持していますが,正規の安全性評価を経ずに地下市場で流通しています。しかもそれらは質量や化学的な性質が変更されているために,特異性の高い検査手法で分析するほど目的外物質として除外されてしまい,見逃す原因となってしまいます。不正を手助けする側はコピーや類似品を作ってインターネット上の仮想薬局で販売するだけですが,我々検査する側は,それまで未知であった無承認物質が検出されると,まずその安全性を確認し,投与実験を行って検査対象となる代謝物を検索,次いでできあがった検査方法の精度を評価するという,医薬品開発と同様の手順を経てやっと一つの検査方法ができあがるので,検査方法が確立する頃にはもう別の物質が登場していることも少なくありません。よく言う「いたちごっこ」の状態ですね。

どういった対策があるのでしょうか?

あらかじめ対象を限定せず,広範囲の物質に対応できる分析方法を開発することです。

といいますと?

Targeted analysisでは,いってみればごみの中から微量な目的成分を感度よく検出することに主眼を置いています。ですからごみを減らす,つまりなるべく目的以外の化合物を減らすような試料調整を行ったのち,狙った物質だけを検出できるような条件で測定します。つまり脱法ドラッグやデザイナードラッグはごみとして除外されてしまうのです。そこで,なるべく測定途中で情報が失われないような条件で,まずはほとんどの化合物を一度に検出し電子データとして保管します。ここで,既知の化合物成分のピークはリアルタイムに同定できますが,未知のピークデータも破棄することなく集積していきます。薬物を使用していない人から採取した試料には検出されないような非常在成分が,一定のパターンで試料中に繰り返し現れる場合には,体内で分泌されず,体外から摂取されたドラッグとその代謝物である可能性が高いと判断し,このピークの構造解析を質量分析計で行い,問題となるドラッグを見つけ出していきます。

そのような分析にはどういった質量分析計が必要なのでしょうか?

広範囲の物質が分離対象になり,多段階のイオン開裂と高分解能でフラグメントイオンが検出できるLC-MS装置を使います。 我々が使用している装置でこのような条件を満たすMS装置には島津さんのLCMS-IT-TOFがあります。GCMSのTargeted analysisで分析する場合には,目的物質の性質により酸性,中性,アルカリ性などの画分に分けて抽出精製し,そのまま,あるいはそれぞれの画分に最適な誘導体処理を施します。この段階で検出できる物質の範囲がかなり限定されてしまっているともいえます。LCならばこのような複雑な前処理をしないで試料を導入でき,キャピラリーGCとの分離能の差はMSの多段階のイオン開裂と高精度の質量測定がカバーしてくれる訳です。このようないわゆるNon-target analysisの構想自体は10年ほど前からあったのですが,当時TOFMSの用途は生体高分子の解析が中心で,装置メーカーさんも含め薬物スクリーニングに使用するという発想はほとんどありませんでした。 最近になって未知成分を含む低分子物質の多成分一斉分析にLC-TOFMS分析が有効であると認知されるようになり,現在の装置は誰でもこのような目的に使えるレベルになってきたと感じています。

IT-TOFMSという質量分析計は弊社独自の技術で,イオントラップで空間に閉じ込めているものを飛行管へ飛ばし高分解能・高精度を両立するのに開発担当者は大変苦労しました。その技術がお役に立っており,大変ありがたく思います。他にも取り組まれている課題はありますか?

もうひとつは生体高分子,特に糖タンパクホルモンです。特に有名なのは造血幹細胞の赤血球への分化を促進するホルモン,エリスロポエチン(EPO)で,その遺伝子組み換え製剤は腎性貧血の薬として使用されています。赤血球の増加による持久力を高めるドーピング薬として使用されるケースがあるのですが,ヒト体内で分泌されるEPOと薬として服用される遺伝子組み換え製剤とを区別することが難しいのです。

どのようにして区別して分析するのですか?

一般にはイムノアッセイ(免疫測定法)または免疫転写等電点電気泳動法を使います。特定の糖タンパクホルモンに結合する抗体を用意し,抗体に糖タンパクホルモンが結合した時に蛍光あるいは化学発光を発するよう標識化合物を結合させれば,定量的に糖タンパクホルモンの存在量がわかります。分析する前にどの糖タンパクホルモンを見るかを決めていますから,これもTargeted analysisの一種で,一つの対象物質に対して,一つの測定手法が必要になります。通常のEPO検査は尿検体を使って分析を行いますが,48から72時間という長い時間がかかってしまいます。そのため事前に全員あるいは登録選手を対象とする血液検査を行ってヘモグロビン,赤血球数,幼若化赤血球比を把握しておき,この検査の結果,生理的な変動範囲に比較して疑わしいと変動を示した競技者について,免疫転写電気泳動法で遺伝子組換えEPOの有無を判定します。しかし血液検査で明らかに疑わしいと思われるのに尿のEPOは既知のEPOと構造が一致せず,判定不能となるケースのあることが分かってきました。

何故そのようなことが起ったのでしょうか?

EPOは医学界と製薬会社にとって最も重要な遺伝子組換え製剤の一つですが,世界で最初に実用化された第一世代遺伝子組換えEPO製剤の特許が2000年半ばに失効して,世界中で構造の違う類似品,いわゆるバイオシミラー(バイオ後続品)が多数出回るようになったのです。当時,判定不能事例は,免疫的にはヒトEPOと認識されるが,電気泳動挙動の異なるEPO類似物という程度に理解されていました。遺伝子組換え医薬品は,目的物質をコードするDNAを組み込んだCHO細胞を培養することによって作られるので,理論的には同じ蛋白をコードするDNAを用いれば同じコア蛋白を持つ目的物質を作れますが,直接的な遺伝子制御の指令を受けない糖鎖の構造は,利用できる糖転移酵素や原料となる糖の組成に依存するので,先行品とバイオシミラーの違いはその糖鎖にあるということが容易に推測できます。実際,ここ数年の我々の研究で,先行品とバイオシミラーでは,コア蛋白の構造と糖鎖結合部位は一致するが,糖鎖骨格(アンテナ構造)と糖鎖の修飾の度合いや糖鎖の組成に大きな違いがあり,その差異と等電点電気泳動から推定される電気的性質は良く一致することを確認しています。

その研究にも質量分析計をお使いいただいているんですね。

ええ,先ほども説明したLCMS-IT-TOFとMALDI法でイオン化したイオンをIT-TOFで検出することができる島津さんのAXIMA Resonanceを使用しています。製薬会社による自社のEPO製品個別の研究報告は多数ありますが,我々の目的は現在市場に流通する遺伝子組換え糖蛋白のうち,世界反ドーピング機構(WADA)がスポーツでの使用を禁止している糖蛋白製剤およびそのバイオシミラーを網羅的に解析することにあり,対象となる物質のそれぞれについて,特徴を詳しく調べる必要があったのです。そのためには仮想的に幾何異性体を識別するのではなく,MSn測定で得られる多段階のイオン開裂データから直接糖鎖構造を確認したかったのです。我々のアプローチはきわめてオーソドックスなもので,特殊な方法は使用していません。第一段階で糖蛋白のトリプシン消化を行い,次いで糖鎖切断酵素(PNGaseF)でN-結合糖鎖をコア蛋白から切断して,短いO-結合糖鎖を含むトリプシン消化ペプチド,糖鎖を含まないトリプシン消化ペプチド,N-結合糖鎖の3群からなる試料を得ます。あとはその試料をMS分析するだけですが,LCMS-IT-TOFまたはAXIMA Resonanceを使うと,N-結合糖鎖はヒドラゾンとして抜き出し,その他の群はそのままTOFMS分析するだけでコア蛋白構造,糖鎖結合部位,糖鎖組成を比較的簡単に調べることができてしまいます。糖蛋白ホルモンの多くは,糖鎖の枝分かれ構造,末端の修飾の度合いやシアル酸含量によって生理活性が異なることが広く報告されていて,一般には様々な制限酵素や複雑な抽出工程を経て分析する必要があるのですが,複数のセリン残基を含むトリプシン消化ペプチドでも,IT-TOFMSの特徴であるMS3以上の多段階イオン開裂測定で段階的に開裂イオンを測定することによってO-糖鎖の結合部位が特定できることが確認できました。

圧倒されるようなデータです。膨大の実験の結果からも先生や研究員の方の努力の賜物と実感できます。ところで今までのお話であれば検出系がIT-TOFであればイオン化はESIでもMALDIでもどちらでもいいように思ったのですが。

いえ,当研究所では10台ほどのMS装置を利用していますが,一つとして同じイオン光学系・イオン源・インターフェイスのものはなく,目的ごとに使い分け,分析条件を複数の装置でベリファイしています。基礎研究とは違って,開発できた成果を世界のアンチ・ドーピング機関で使ってもらうことを意図した技術移転型の検査法開発では,相手のドーピング検査機関が同じようなESIあるいはMALDI質量分析計を持っているとは限らないのです。実際に使ってみないと実感しにくいのですが,同じIT-TOFMS装置で同じ試料を測定しても,一方の装置で感度良く検出され,もう一方では検出しにくいということがあり,当然ながらMSスペクトルパターンも違ってきます。そのことを踏まえて,なるべく様々な条件で安定して検出できる条件を探して行きます。世界に二つとないような特別な装置でないと実現できないような分析は標準法にはなりません。

LC-MSの例では,一見感度良く見えるトリプシン消化ペプチドのピーク強度が,実は安定しにくいということを時折経験します。多くの場合,一つのペプチドに複数の近接する塩基性アミノ酸が存在し,あるいは消化ペプチドの検出感度がイオン化法の特性に依存するようなケースで,常に信号強度の大きいピークを分析すれば安定して感度の良い分析結果が出るわけではありません。このようなネガティブな情報を提供することも,ドーピング検査方法の信頼性を向上させ,標準法として定着させて行く上で重要なのです。

なるほど,他の研究機関が利用する場合を考えてバリデーションの意味で二種類のイオン化の質量分析計が必要ということですね。良くわかりました。
いろいろな機関で分析する場合,オペレーターの方の熟練度の違いも影響しないのでしょうか?

我々が質量分析法に期待しているのもその点です。質量分析はそういった影響が出にくいと思っています。それと精度が「目でみえる」というのは大きな利点です。検査がうまくいかなかった時にスペクトルの質を見ればどういうところが悪かったのか検討がつきますからね。あと,多成分を一度に迅速に分析できる点も大きいです。こういう分析ではLCMSだけでなくGCMSにも可能性が有りますね。最近,流行っている代謝物解析・メタボロミクス解析ですが,先ほどのESIとMALDIと同様,イオン化法が違うのでLCMSで検出しにくい脂質やステロイドなどの分析に有効でしょう。かつて我々は,多成分一斉分析の自動化のため,データ処理と報告書作成のためのマクロプログラムを自分で書いていました。今ではこういった要望を聞いていただいて自分達である程度カスタマイズして装置を使えるようにしていただいたので,大分使いやすくなりました。だいぶ時間はかかりましたが(笑)。今後は標準試料が入手できない新規物質に遭遇した際に貴重なデータを簡単に蓄積でき,以後の測定で自動検出できるような進化型のソフトウェアーがサポートされれば,より使いやすくなり,汎用機器としての使用が一層拡がっていくと思います。

おっしゃる通りだと思います。今弊社もメソッドパッケージという形で分析目的別の分析条件を提供したり,同定するためのデータベース開発に力を入れています。

それと多機能性(Multiplex)ですね。分析対象が変わるたびに装置を入れ替えるといった投資はやはり難しいですから。その点質量分析計は条件を変えるだけでいろいろな分析ができるのは魅力的です。

質量分析計に関して大きな期待を寄せていただきありがとうございます。一方でご不満な点はないでしょうか?

まずは感度です。現在のドーピング検査で採取できる尿の量は70から多くても90mlです。つまり尿中のペプチドホルモンをMS装置で検知するには100倍の感度向上が必要です。それから価格です。国際競技会では大量の検体を短時間で処理しなければなりませんから,検査に質量分析計を導入すると大きな投資になってしまいます。

最後に今後のドーピング検査の展望についてお伺いできるでしょうか?

お話したようにドーピング検査というのは多数の使用者がいていろいろな薬剤が次々に出てきます。特にインターネットによって情報の垣根がなくなってからは新たなドーピング物質やデザイナードラッグの広がりがどんどん加速しています。一方で検査する我々は信頼性,安全性の確保などがあってどうしても後手後手に回ってしまいます。ですから個人で対応するというよりも,いろいろな分野で開発されていて利用可能な技術は積極的に取り入れて研究の短縮を図る流れになっていくと思っています。特に今進めている糖鎖の研究では日本の研究レベルは非常に高く,独自技術も多い分野です。残念ながら,欧米のドーピング検査機関の多くはこういった日本の技術をほとんど検査に取り入れていませんが,近い将来,行き詰まりつつある糖蛋白ホルモン検査のブレークスルーになると確信しています。自分自身でできる範囲は限られていても,日本発の既存技術を世界に知ってもらいスポーツの健全な発展に貢献できればいいと思っています。

本日は大変お忙しい時期に,いろいろなお話を聞かせていただき大変参考になりました。どうもありがとうございました。

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インタビュアコメント

財団法人日本分析センターアンチ・ドーピング研究所様ではGCMS-QP2010Ultra,LCMS-IT-TOFAXIMA Resonanceと弊社の主力の質量分析計を使って日々のご研究をされています。その中で技術者が見落としてしまいがちなイオン化や検出系の違いから来る問題点も研究に反映されていました。これが,ドーピングという不正行為をただし健全なスポーツの発展を願われる思いと公的機関として成果を社会に反映するという姿勢から来ていることに感銘を受けました。今回お話いただいたような目的を意識したなかでのご要望にお応えしていくことで,様々な分析機器を取り揃えている弊社の強みを生かしたお客様にとってよりよいソリューションを届けていきたいと思います。


GCMS-QP2010Ultra      GCMS-QP2010Ultra 

ガスクロマトグラフ質量分析計 GCMS-QP2010 Ultra は販売を終了し,後継機種GCMS-QP2020となりました。

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