執筆者紹介

vol.54 「私の夢」

中込 和哉 先生

帝京大学 薬学部 教授 (ご所属・役職は2004年4月発行時)

ある日の高校生の息子との会話です。

  1. 『お前は将来の夢は何だ,どっちの道に進むのか,考えているか?』
  2. 『お父さんは,いつ頃そういうことを考えていたのか?』
  3. 『・・・』

 そうです。 私はいつ頃将来のことを考えていたのでしょうか・・・
 かすかな記憶の糸を手繰ってみたところ,2冊の本を思い出しました。 この2冊にめぐり逢ったことで,どうやら今の道に進んできたようです。

「化学」に最初に興味を持ったのは,子供の頃に読んだアイザック・アシモフ著『化学入門』でした。 その頃の私はSF小説を読みあさっていてアイザック・アシモフのSF小説も何冊か読んでいました。 『化学入門』もアシモフの書いたSF小説だと勘違いして手にとりました。 周期律表にある百ばかりの元素から全ての物質が出来ていること,球と棒とで表された単純な分子モデルで全ての元素を表すことができること,この本で知ったことは簡単明快でわかりやすくかつ衝撃的で,将来「化学」を勉強しようと思ったのはこのときでした。

次に影響されたのは,学生時代に読んだマーティン・ガードナー著『自然界における左と右』でした。 物理現象や化学反応は左右対称であり物質には光学活性物質(キラル化合物)と呼ばれる鏡像体が存在すること,通常の化学的な方法ではそれぞれを分離することは出来ないこと,生物はその片方のL体という構造体からのみ形作られていること,を知って驚きました。 また,非対称現象の存在や言葉のみで「左」と「右」を伝えることの難しさなどをこの本から知り,将来キラル化合物の合成か分離に関わる仕事をしたいと思ったのはこのときでした。

「クロマトグラフィー」に興味を持つようになったのは,恩師 谷村たけ徳 先生の講義を聴いたのがきっかけではなかったかと思います。 非常に難解な講義ではありましたが,その中にキラル化合物の話が出たことを覚えています。 「クロマトグラフィー」という何やら素晴らしい技術を使えばキラル化合物の分離が出来るかもしれない,と講義中に考えていた覚えがあります。

私は,『化学入門』で化学を志し『自然界における左と右』でキラル化合物に目を向け,クロマトグラフィーによってその夢を実現しようと思ったわけです。

時は移り,大学の研究室に身を置くようになって振り返ってみると,今さらながら技術の進歩には驚かされます。 当初私が夢に描いていたキラル化合物の合成研究は野依良治先生らによってほぼ達成され,またキラル化合物の分離研究は W. H. Pirkle はじめとする研究者の成果によりキラル分離カラムが市販され,誰でも簡単にHPLCによるキラル分離ができるようになりました。 私の手ではないのが残念ですが,昔の私の夢は実現してしまいました。

そこで新たに考えている私の夢は,『キラルの場を用いないで行うキラル分離』です。 キラル固定相もキラル移動相も用いない,ごく普通のクロマトグラフィーの分離モードでキラル化合物を分離してみたい,と考えています。 ごく常識的に言えば,そんなことは出来っこない,ことになります。 が,ちょっと待って下さい。 キラル化合物も分離できるとHPLC開発の初期に予想できたでしょうか? タンパク質がそのままイオン化して質量分析計で測定できる, NMRでからだの中が画像化できる,と誰が考えたでしょうか?

技術の進歩は時として思いもかけないところに出現し発展していくことがままあります。 それが私の研究室であっていけないことは何もありません。 私の夢の次のブレークスルーは,ぜひ私の研究室から出てほしい,と願って毎日研究室内での学生さんの実験結果に注目しています。 またその失敗結果も興味を持ってみています。 数多くのブレークスルーは学生さんの失敗例から見出されたという報告があるからです。 私の研究室ではむしろそちらの方を重視した方が良いかもしれない,とも思う今日この頃です。

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