vol.3 文化財の研究に活躍する赤外分光法とラマン分光法

執筆者紹介

vol.3 文化財の研究に活躍する赤外分光法とラマン分光法

佐藤 昌憲 先生

京都工芸繊維大学名誉教授・奈良文化財研究所 (ご所属・役職は2004年9月発行時)

佐々木 良子 先生

奈良文化財研究所 (ご所属・役職は2004年9月発行時)

概要
 赤外やラマン分光法といえば、現代科学技術の最先端分野、たとえば生命科学、電子工学、宇宙科学などの分野で活躍していることは良く知られている。しかし、その正反対の時間軸上に位置する考古学や文化財の研究にもこれらの分光法が大変活躍していることは以外に知られていない。筆者が約20年前ごろから文化財材質、特に有機質遺物の顕微赤外分光法による研究を開始した頃は国内ではほとんど同じ分野の研究者も無く、手探り状態で研究を進めていった。しかし、当時からすでに外国では文化財の科学的研究が色々な方法によって行われていることを知り、知見が集積されるにしたがって研究が進展した。有機質遺物の中でも、絹繊維、漆、琥珀に話題を絞りその研究成果の要点を解説する。さらに最近、国外における赤外やラマン分光法による文化財研究の進展は著しく、それらの情勢についても解説する。

 

 

研究の始まり
 筆者が以前、京都工芸繊維大学で分析化学の研究をしていた頃は、文化財材質の研究についてはあまり思い浮かべることは無かった。しかし、学部の名称が「繊維学部」という国立大学の中でも珍しい名称であったせいか、学外からの調査依頼資料には繊維類に関するものも多く、特に、考古学的な発掘現場からの依頼には、劣化した出土繊維の材質同定という難題が多かった。周りの研究室の多くは現代高分子科学の専門家ばかりで、そのような古い時代の問題に興味を示す人も全くいなかったため、お前は分析化学が専門なのだから何とかなるだろうと問題を盥回しに押し付けられる始末であった。しかし私も良く考えてみると、社会一般からいろいろな要望があるのに、自分に興味が無いとか、専門外だとか言い逃れをしているのは大学の社会に対する対応としてもよくないのではないかと考え、自分でそのような問題の解決に答えられるよう、適切な分析法を模索し始めた。そのうち、多くの、考古学分野の研究者とも知り合いが増え、何が問題点で、何を解決しなければならないかが次第に明白になってきた。

 

 

有機質遺物の特色
 まず、繊維、漆、琥珀などの有機質遺物は、長年月の埋蔵環境下で劣化が著しく粉末状になっており、その材質を調べるための基準となるものが得られないことさえある。さらに、文化財は貴重な試料であるため非破壊分析法が理想であることは明らかである。しかし、もし最小限の微量の試料採取で多くの情報が得られるならば、考古学に有用な知見を提供できることになるのでそのような分析方法を開発することが重要である。
  このような矛盾した問題点を解決しようといろいろ文献調査などを重ねているうちに、外国では既に有機質遺物の材質研究に赤外分光法、特にフーリエ変換赤外分光法(FT-IR)が導入されていることがわかった。当時、大学にはまだ顕微FT-IRの装置は無かったのでメーカーにお願いして、会社にある装置を使用させていただきながら、文化財試料に適切な処理法をいろいろ考えていった。

 

 

絹繊維、漆、琥珀の顕微赤外分析

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(図1)奈良県下池山古墳(3世紀後半)出土の青銅鏡に付着した絹織物断片(参考文献2)

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(図2)顕微赤外測定資料の例(金属台上でプレスして薄層にした繊維資料)。赤線の短辺は50μm。

 約十年前に大学を定年退官したとき、当時の奈良国立文化財研究所から客員研究員として有機質遺物の材質研究を行ってほしいとの要請を受け、今日に至るまで研究を続けられる環境に恵まれている。研究所には丁度、顕微FT-IRが設置されたばかりであり、その後の研究は大いに進展した。このような成果が少しずつ蓄積されるようになると関係方面の理解が得られ、正倉院(8世紀)所蔵の繊維品、奈良県の藤ノ木古墳(6世紀)出土繊維品、下池山古墳(3世紀後半)の出土繊維品(図1)、中世の甲冑(14世紀~16世紀)に使用された繊維品(組紐)(図2)など歴史的にも重要な資料に関する研究が一段と進展した1)、2)、3)。この結果、たとえば、絹繊維が、長年月の埋蔵環境下でどのような劣化あるいは分解が進行するかという問題についても赤外スペクトルの変化からその分子的機構がある程度推察できるようになった。1000年以上も埋蔵されたことによる絹繊維の劣化機構は、現代の絹繊維に対する電子線や紫外線照射、あるいは加熱による劣化促進シミュレーションの結果とは様子が大変異なっていることがわかってきた。 結果的には,劣化の度合いは経年よりも,埋蔵環境が重要な要素である。
 出土遺物の中で漆もまたFT-IRによる研究に適した試料である。漆は漆属の木が分泌する樹液を加工して使用するもので、縄文時代(数千年以上の古代)以来漆を使用したさまざまな遺物が日本各地の遺跡から出土している。遺物の種類も多く、土器の表面、櫛や腕輪などの装飾品、木棺の表面など広い範囲の遺物に塗装され、黒色、赤色に彩色されていることも多い。漆は長年月の埋蔵環境下でも、劣化の度合いがあまり著しくないので、赤外スペクトルから同定しやすい。また漆は古代から母体材料に1層だけ塗られたものは少なく、普通、何層にも成分の異なる漆を重ねて仕上げているので各層の材質を調べることも重要である。今後赤外分析法でも漆層断面の構造研究が進むであろう。
 古代から東アジア地域各地の漆は異なる品種の木から採取加工されており、漆の構成分子もすこしずつ異なるので赤外スペクトルだけでは産地の推定は不可能で、熱分解ガスクロマトグラフィー/質量分析法などを使用して判定される。
 琥珀は新生代第三紀の松柏科植物の樹脂が地中で化石になった有機物質である。琥珀も縄文時代以来、装飾品として加工された遺物が日本各地の遺跡から出土する。日本では既に約20年以上も前に他の研究者により波長分散型赤外分光計を用いて出土琥珀のスペクトルが測定され、産地同定の研究が行われた。しかし、われわれの顕微FT-IRによる研究を開始するに当たり、金属台上でプレスして薄層とした琥珀試料を光学顕微鏡で観察したところ、微結晶部分と展性のある非結晶部分が微細なランダム状態で混在していることが分かった。顕微FT-IRによりスペクトルを測定したところ、同一試料であっても両方の部分では約1300cm-1以下の低波数領域でスペクトルパターンが明瞭に異なることを明らかにした4)。したがって従来の常量試料の測定(KBr錠剤法)では混在する両成分を平均的に観測したスペクトルを得たものと考えられる。我々はこのような結晶性の違いによる差異の影響を受けていないと考えられる1710-1740cm-1付近の強く幅広い吸収帯を、ガウス分布を仮定した単一吸収成分の集合体と考えてカーブ・フィッテイング法でシミュレーションを行なった。国内各地の遺跡出土琥珀について多くのデータを求め、シミュレーション法の結果を相関分析法で解析することにより産地推定の手がかりが得られる可能性があることを確認した。現在この方法はまださらに多くのデータを集積中で完全には解析を終了していない。

 

 

文化財研究の今後の動向
 奈良文化財研究所では昨年度、島津製のFT-IR(IRPrestige-21)と顕微測定装置(AIM-8800)を設置した。この装置では微小スペクトルの2次元マッピングも可能であり、筆者らの研究は新たな段階に入った。この装置は色々な測定が可能な汎用高性能な装置であるが、文化財材質の測定には試料調製などに少し工夫が必要な点もあり、島津の技術関係の方々と相談しつつ、使い勝手の良い装置にする努力を続けているところである。
 一方、世界的な情勢として赤外やラマン分光法による文化財の材質研究は近年、ますます多様性を帯びてきている。あとで解説するIRUGの研究発表会でも、たとえば赤外分光法では微細試料の断面構造スペクトルの二次元マッピングが普通に行われるようになり、また無機顔料のラマン分光法による研究が目立ってきた。ここでは紙面の関係で紹介しなかったが奈良文化財研究所でも高妻洋成によりラマン分光法の研究、開発が続けられており、遺跡の現地調査に適したポータブル型ラマン分光計が試作され、調査に活躍している。
 筆者自身も、古代の文化財を対象とする研究では、日本国内だけでなく中国、韓国など東アジア地域の歴史や文化との関連性も大変重要と考えており、それぞれの国の遺跡や博物館所蔵品の調査、国際会議での研究発表、情報交換などを心掛けている。今年11月下旬に中国の厦門大学で開催される「Spectral13」学会に招待を受け、文化財の研究に応用されるFT-IRについて講演を予定している。さらに最近、国内でも分光学の分野の研究者が文化財への応用について関心を持っていただけるようになったことは大変喜ばしいことである。筆者は今年11月4日に大阪大学で開催される「日本光学会年次学術講演会」に招待を受け、「文化財の科学的研究で活躍する光技術」という題目で講演予定である。

 

 

IRUGの活動について
 IRUG(Infrared and Raman User's Group)は1993年に赤外分光法(1999年からはラマン分光法も含む)を用いて文化財の研究調査を行なっている欧米の博物館研究者達が、その情報交換を目的として設立した非営利団体である。1994年のPhiladelphia Museum of Art(アメリカ)での第一回国際会議以来、Victoria and Albert Museum, London(1996、イギリス)、Winterthur Museum, Gardens and Library, Winterthur, Delawere(1998、アメリカ)、Bonnefantenmuseum, Maastricht(2000、オランダ)、Getty Conservation Institute, Los Angels (2002、アメリカ)、Institute for Applied Physice "Nello Carrara", Florence(2004、イタリア)と2年に一度国際会議をアメリカとヨーロッパの各地で交互に開催し、分光学上の情報(機器・測定法・試料採取・データ解釈等)を発表、討論し論文集を出版してきた。
 また文化財保存科学で用いる赤外やラマン標準スペクトルのデータベース構築を目指してきた。ホームページ(http://www.irug.org)上で、JCAMP-DXで規格化したスペクトルを収集し、Editing Committee Meeting: Infrared and Raman Users Group Spectral Database(1999, Florence)を経て 2000年に赤外スペクトルについてデータベース集を出版した。更なるデータの収集と標準スペクトルの最適化を目指して、ホームページでスペクトルの収集や編集を続けている。
 隔年の集会には、松田泰典(東北芸工大)など数名の日本人研究者も参加し、委員会のメンバーに佐藤昌憲(奈良文化財研究所)、データ編集委員に塚田全彦(国立西洋美術館)、佐々木良子(奈良文化財研究所)が協力している。また新たにラマンスペクトルのデータも収集を開始することになり、高妻洋成(奈良文化財研究所)がデータ編集委員として参加の予定である。
 今後、2006年にはアメリカでの研究集会の開催が決定しており、2008年は日本での開催可能性について打診されており、関係者の間で予備的な意見交換を行なっている。

 

 

(IRUG Conferencesの歴史)
Infrared User's Group for the Analysis of Artistic and Historic Materials
  IRUG1 1994 Philadelphia Museum of Art, Philadelphia, PA, US
  IRUG2 1996 Victoria and Albert Museum, London, UK
  IRUG3 1998 Winterthur Museum, Gardens and Library, Winterthur, DE, US
Editing Committee Meeting: Infrared and Raman Users Group Spectral Database
  1999 Instituo di Ricerca Sulle Onde Eleettromagneriche, Florence, Italy
Infrared User's Group Meeting in Conservation Science
  IRUG4 2000 Bonnefantenmuseum, Maastricht, The Netherlands
International Infrared and Raman Users Group Conference
  IRUG5 2002 Getty Conservation Institute, Los Angeles, CA, US
  IRUG6 2004 Institute for Applied Physice "Nello Carrara", Florence, Italy

 

 

参考文献

 

  1. "文化財のための保存科学入門" 岡田文男編(佐藤昌憲、分担執筆)第2章第5節 繊維 p74-87(角川書店)2002
  2. "日本の美術(No.400)美術を科学する" 田中 琢編(佐藤昌憲、分担執筆)繊維・染料の調査研究法 p51-60(至文堂)1999
  3. "歴史的に見た染織品の美と技術" 柏木希介編(佐藤昌憲、分担執筆)第1章 古代の繊維 p1-31(丸善)1997
  4. M.Sato,M.Mimura and K.Yamasaki,"Studies on Archaeological Ambers in Japan" in Scientific Research in the field of Asian Art (Proceedings of the Forbes Symposium at the Freer Gallery of Art) Edited by Paul Jett, p8-14, Archetype Publications, 2003

 

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