執筆者紹介

vol.88 PM2.5,ところかわれば中身もかわる

早川 和一 先生

金沢大学
医薬保健研究域/ 薬学系
教授 (ご所属・役職は2013年7月発行時)

日本の多くの人は,近頃の空はきれいになったと感じていると思う。私は,物が燃えるときに発生する発癌物質として知られる多環芳香族炭化水素とそのニトロ誘導体(以下PAH類と略称する)の分析法を開発して,環境中の動態と健康影響を研究している。都市域のPAH類の多くは自動車,特にディーセル車から出ていたことから,首都圏のディーゼル車規制が始まった。当時の石原東京都知事が,テレビカメラの前でペットボトルに入れたディーゼル粉塵を見せながら「都民の健康に有害なディーゼル粉塵による大気汚染を防ぐために,都内に入る大型車を制限する」とのデモンストレーションを行った。そして自動車に対する世界で最も厳しい排ガス粉塵規制がとられるようになった。今はハイブリッド車の人気が大変高く,私もハイブリッド車に乗り換えて7年になる。こうした施策が功を奏し,例えば金沢では,大気中PAH類濃度が最近10年間に1/10に激減した。このデータを示す度に海外の大気汚染研究者は一様に目を丸くする。

ところが,今年は新春から中国北京市のPM2.5が世界の大きな関心事となり,日本では毎年3~5月に黄砂が襲来することから, PM2.5が日本に長距離輸送されて影響が出るのではないかと危惧された。中国は目覚ましい経済産業発展を続け,今や世界第2 位の経済大国で,世界最大の石炭消費国でもある。私は15年程前から中国の主要都市の大気を継続調査しているが,工場の排煙だけでなく,冬は団地の石炭暖房施設からすさまじい量の煙が排出され,その中に沢山のPAH類が含まれている。もちろん煙突には煙の処理装置は殆どついていない。中国の都市では自動車交通量も急速に増加しているが,冬の中国北部においてはまだまだそれをはるかに凌ぐ量のPAH類が石炭暖房施設から出ている分析結果に驚かされる。

日本では大気環境基準として「PM2.5の1日平均値が35 µg m-3」を定めている。さらに今回の問題を受けて,急遽PM2.5の1日平均値が70 µg m-3を超えると予想される場合には注意報を発することになった。通常,土壌粒子の粒径はPM2.5より大きいが,日本まで長距離輸送された黄砂はPM2.5に入る割合も少なくない。即ち,以前から春先は燃焼由来のPM2.5と自然由来のPM2.5が一緒に日本まで飛んで来ている。あたかも急に今年になってPM2.5レベルが上昇したかのように報道されたが,これは間違いである。

ところが世界は広く,生活様式も様々。PAH類の発生源もそれだけではない。タイ北部のチェンマイ市は周囲を数百メートルほどの山々に囲まれた盆地にあり,国内で最も肺がん死亡率が高い地域である。東南アジアは昔から焼畑農業が盛んで,乾季になると周囲の山々のあちこちから煙が上がる。この煙には沢山のPAH類が含まれており,自動車から出る排ガス粉塵と相まってチェンマイ市内の大気汚染を助長し,これが高い肺がん死亡率の原因と考えられていた。そこで,私たちはチェンマイ大と共同で,市内の住民として交通警察官とタクシー運転手,比較対象として山村住民の各々100人ずつの尿を採取し,呼吸で体の中に入ったPAHが代謝された物質(PAH代謝物)を尿から定量した。当然ながら,チェンマイ市内の住民の方がPAH代謝物の濃度は高いと思っていた。ところが結果は全く逆。試料の取り違えがなかったか心配になり,学生に確認したが「絶対にそんなことはない!」と断言された。そこで念のためと,皆で室内を調べてみた。すると,日常の炊事の他に冬期には暖房にも薪を使っていた。換気設備は全くなく,もうもうと立ち込める煙にかすむ土間に家族みんなが生活している。「ああ,これが最大原因か」と初めて分かった。ヒトは1日の2/3以上を室内で過ごす。大気汚染,大気汚染と言うが,生活様式が異なれば室内にも大きな汚染源があったのである。

このように,日本の都市大気汚染は自動車対策によって大きく改善したが,中国にはまだそれが通じない都市も少なくない。さらに最大の汚染源が室内にある地域もある。ところかわれば,PM2.5の発生源も様々。研究成果や施策の押し売りは禁物である。

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