執筆者紹介

vol.73 メタボロミクスの可能性と現状

福崎 英一郎 先生

大阪大学大学院工学研究科
生命先端工学専攻  教授 (ご所属・役職は2009年7月発行時)

ゲノムは,遺伝形質を担う情報であり,生物の運命を特徴付ける最重要条件であるが,高等生物になればなるほど,後天的獲得形質が極めて重要になってくる。そこで近年,ゲノム情報実行の結果である代謝物総体(メタボローム)に基づくオーム科学であるメタボロミクス(メタボローム解析)が注目されている。 メタボロミクスの上流に位置するオーム科学であるトランスクリプトミクスとプロテオミクスがゲノム情報実行過程でのメディアの流れを表現するといわれているのに対して,メタボロミクスは,ゲノム実行の結果であり,ゲノム情報にもっとも近接した高解像度表現型解析手段と言えるが,その応用範囲はポストゲノム科学にとどまらず,医療診断,病因解析,品種判別,品質予測等の多岐におよぶ。基幹代謝物は,当然のことながら生物間で互換性を有するので,メタボロミクスは,ゲノム情報が利用出来ない実用植物や実用微生物にも適用可能である。

さて,上記のように有望技術として期待されているメタボロミクスであるが,観測対象の代謝物の化学的性質が多岐に渡る故に,手法の標準化が困難であり,自動化も進んでいない。高度な解析手段として運用するためには,高い定量性が望まれるが,メタボロミクスの各ステップ(生物の育成,サンプリング,誘導体化,分離分析,データ変換,多変量解析によるマイニング)は,すべてが誤差を発生する要素を含み,標準技術の確立が極めて困難である。また,得られた膨大なデータから有用な結論を導く作業,すなわち,「データマイニング」についても標準技術は確立されていない。当該状況が,メタボロミクスの正しい理解を困難とし,一般の研究者に普及しない一因となっている。問題は数多くあるが,本稿では,分離分析に焦点を当てて議論したい。

限られた貴重な生体試料から出来る限り多くの代謝物情報を取得するためには,感度,精度,一般性,操作性にすぐれた分析手段の運用が必要である。あらゆる要件を満たす手法は存在しないが,その中でも,クロマト等の分離手段と質量分析との組み合わせによる分析系は,現状では最上の分析手段と言える。質量分析の利点は,大量の定性情報が得られる上に,高感度で定量可能であることである。通常分析では,観測標的が決まっているため,しかるべき内部標準化合物を用いた厳密な定量分析手法が適用可能である。しかしながら,特定の標的を決めずに網羅的に解析することを主眼とするメタボロミクスにおいては,従来の内部標準法による標準化は困難である。如何にして定量性を検証するかが重要となる。また,大量に存在する代謝物に混在する微量代謝物を網羅するためのノウハウも必要である。

メタボロミクスに用いる質量分析は特に限定されないが,種々の分離手段と組み合わせて運用する場合が多い。例えば,スクリーニング/バイオマーカー探索が目的の場合は,高速プロファイリングを主眼として飛行時間型質量分析計(TOF-MS)を,定量標的がある程度決まっている場合は,定量性を重視し,タンデム四重極型質量分析計(QQQ-MS)を,また,高度な構造情報を得たい場合は,四重極-飛行時間型質量分析計(Q-TOF-MS)や,イオントラップ-飛行時間型質量分析計(IT-TOF-MS)等のハイブリッド型質量分析計をそれぞれ選択する。いずれの場合も,「保持時間」と「質量分析データ」の両方のデータを代謝物情報とする場合が多い。メタボロミクスでは通常,網羅性を優先するため如何にして高解像度の分離分析系を構築するかが肝要となる。「解像度」と「再現性」に最も優れた手法は,ガスクロマトグラフィー質量分析(GC/MS)といえる。GC/MSは,ほぼ完成した分析システムであり,質量分析の経験の無いバイオサイエンス分野の研究者にも容易に扱えることが特長である。キャピラリー電気泳動質量分析(CE/MS)は,イオン性代謝物を観測するのに適した手法でありメタボロミクスにおける重要手法のひとつである。GC/MSほど一般化した観測手法とは言えず,実用運用には若干のノウハウが必要であるが,その分離性能には捨てがたい魅力がある。

代謝物を完全網羅するためには,GC/MSとCE/MSだけでは不十分であり,低分子から高分子まであらゆる化合物に対応したすぐれた分離分析系であるLC/MSの運用がどうしても必要となる。これまでは,ピークキャパリシティがGCやCEに劣ることから,メタボロミクスではLC/MSは十分に活用されていなかった。しかしながら,近年,超高性能HPLCの登場により,状況は変わりつつある。二次代謝解析にはこれまで以上に威力を発揮すると考えられる。今後の重要課題は,これまでCE/MSが最上手段であった高極性イオン化合物分析のアプリケーションの充実である。従来,高親水性化合物の分離に適したクロマトグラフィー担体が少なかったため,イオンペアークロマトグラフィーが一般に運用されてきた。しかしながら,高濃度のイオンペアー試薬を溶出液に混在させるイオンペアークロマトグラフィーは,質量分析の立場からは好ましい分離とは言えない。最近,親水性化合物を保持する種々のクロマト担体が開発されてきたが,分離能,安定性ともに,満足できるレベルとは言えない。苦渋の選択として,イオン化サプレッションとキャリーオーバーに悩まされながらも,いまだにイオンペアークロマトグラフィーが頻用されているのが現状である。 このままではLC/MSがメタボロミクス分析の第一優先になることは難しい。状況を打破するためにカラム担体の開発が急務と言えよう。各社,関係各位の開発努力に期待したい。

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