vol.6 顕微FT-IRによる癌を誘発するラット膀胱結石の構造解析

執筆者紹介

vol.6 顕微FT-IRによる癌を誘発するラット膀胱結石の構造解析

大西 誠 先生

中央労働災害防止協会 日本バイオアッセイ研究センター 試験管理部 分析室 室長 (ご所属・役職は2006年4月発行時)

概要
 一般環境中には多様の化学物質が存在しており、近代文明の発達に伴ってその種類も多様化し、また存在量も増加する傾向にある。その結果、生体に対して毒性を持つものや、突然変異を誘発するもの、あるいは生殖能力に異常をきたすものなどが多種検出され、その使用、製造などに対して厳しい規制が行われるようになってきた。しかしながら、それらの生体影響の中でも特に重篤な疾病である癌の発生率は増加する傾向にあり、十数年に渡って癌死亡率が死亡原因のトップとなっているにもかかわらず、化学発癌性物質については未だ充分に検索されているとは言い難い現状にある。
 旧労働省の委託により、ビフェニルの発癌性を検索するため、日本バイオアッセイ研究センターにおいて2年間の動物実験を行った結果、ビフェニルはラット雄の膀胱に癌を誘発させた。また、その癌が認められた膀胱内には結石の存在が認められ、結石の生成を介して膀胱癌を誘発したことが示唆された。
 本稿では、FT-IRを生体試料の分析に用いた例として、顕微FT-IRによる膀胱癌を誘発した膀胱結石の構造解析について紹介する。

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図1:ラット雄に誘発した膀胱結石の外観

研究の始まり 著者の勤務する日本バイオアッセイ研究センターでは、主として労働現場で働く人々の健康を守るため、多種の化学物質について動物実験を行っている。その中の1つの化学物質であるビフェニルをラットに投与したがん原性試験では、膀胱癌の発生があり、動物の解剖時に膀胱内に多数の結石が認められた。通常、化学物質をラットに投与しても膀胱に結石は発生しない。従って投与したビフェニル、膀胱癌の発生および結石の形成の間になんらかの関係があるものと考えた。これまで、膀胱癌を誘発した結石の成分、構造、および生成メカニズムに関する研究は、ほとんど行われていない。その理由として、(1)ラットの膀胱結石はかなり小さいもの(3mm~10mm)であり(図-1)、構造解析をする上でその取り扱いがかなり難しい。(2)膀胱結石は、従来、主として医学生理学または毒性病理学の分野で取り扱われて来ており、無機化学・物理化学的な視野からの結石の研究がなされていないことなどによる。これらの事から、膀胱癌を誘発した膀胱結石について、試料表面層の情報を適格に得られる顕微FT-IRを用いて、構造解析を行った。

膀胱結石の構造解析
 ラット雄の膀胱に認められた結石の内部構造を調べるため、結石を分割しその断面について検討した(図2-A)1)。その結果、断面は多層構造であり、1つの層の厚さは約250μm(図2-B)であり、層と層の間に空間が観察された。このうち、表面に近い外層の3つの位置、すなわち、外側、中側、内側の位置から顕微鏡下でマイクロマニュピレーターを用いてサンプリングし、顕微FT-IRにより赤外吸収スペクトルを測定した。その結果を図3に示す。外層の外側では(図3-A)、1050cm-1に幅の広いピークが認められ、リン酸カルシウムが存在することが確認された。このリン酸カルシウムは、尿中に含まれる成分である。また、その層の中側(図3-B)では、このリン酸カルシウムのピークに加え、1235cm-1と1070cm-1にシャープなピークが認められ、ラットに投与したビフェニルの代謝物である4-ヒドロキシビフェニル水酸化体のカリウム塩が確認された。さらにその層の内側(図3-C)では、リン酸カルシウムのピークはほとんど認められず、1235cm-1と1070cm-1のビフェニル代謝物である4-ヒドロキシビフェニル水酸化体のカリウム塩のピークが強く認められた。以上の事から、ビフェニルをラットに投与して膀胱に認められた結石は層状構造をしており、ビフェニルの代謝物と尿中のリン酸カルシウムから構成されており、顕微FT-IRを用いることによりビフェニルを投与して膀胱癌を誘発した結石の構造が初めて明確になった。

  • 図2:ラット雄に誘発した膀胱結石の断面図
    (A):ラット結石断面の写真
     
    (B):図2(A)の層の拡大写真
    図2:ラット雄に誘発した膀胱結石の断面図
    (Reprinted with permission fromChem.
    Res. Toxicol.2000,13(8),727-735.
    Copyright 2000 American Chemical
    Society.)
  • 図3.ラット膀胱結石の外層の赤外吸収スペクトル
    (A):外層の外側のスペクトル
    (B):外層の中側のスペクトル
    (C):外層の内側のスペクトル
    図3.ラット膀胱結石の外層の赤外吸収スペクトル

他の分析との照合

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図4.EPMA分析によるラット膀胱結石の元素分布
(A):イオウ、(B):リン、
(C):カリウム、(D):カルシウム

 

 顕微FT-IRによって得られた膀胱結石の構造情報について、確認するために、EPMAを用いて結石の表面分析を行った(図-4)。その結果、膀胱結石からは、イオウとカリウム、また、リンとカルシウムがそれぞれ同じ位置に認められ、イオウとカリウムは、ビフェニル代謝物の4-ヒドロキシビフェニル水酸化体のカリウム塩の成分であり、リンとカルシウムはリン酸カルシウムの成分であると考えられた。結石外部領域ではリンとカルシウムを含む厚い層は、結石を取り囲む貝のように観察されるという特徴があった。さらに、イオウとカリウム、リンとカルシウムは交互の層に分布しており、これらの成分分布から結石は多層構造を示しており、顕微FT-IRで認められた結果と一致した。

おわりに
 一般的に、生体試料はタンパクで構成されるため、その赤外吸収スペクトルのピークはブロードであり、目的物の分析が妨害され、判断がつきにくい場合が多々ある。今回紹介した生体試料の構造解析の研究に関して、顕微FT-IRは非常に有用であった。顕微鏡下で目視しながらマイクロマニュピレーターでサンプリングできる微小な生体試料であれば、赤外吸収スペクトルが測定できる点が本法の特徴である。これらの結果は、結石の成分を分析するために、顕微FT-IRの他にLC-MS/MS、ICP、イオンクロマト等も併用して結石の全体像が明確になった。しかしながら、構造が明確になっても、結石が如何にして生成したか、また、雄のラットでは膀胱に結石が多発するが、雌のラットでは少数でしか結石が発生しないなど、不明な点がまだまだ多く残されている2~4)。生体に投与した物質の代謝物は尿中、血液中、胆汁中など、溶液中の溶解状態が多いが、膀胱結石のように固体状態の試料では、顕微FT-IRは分析情報を得るための威力を発揮することが期待できる。

参考文献

  1. M. Ohnishi, H. Yajima, S. Yamamoto, T. Matsushima, T. Ishii: Sex Dependence of the Components and Structure of Urinary Calculi Induced by Biphenyl Administration in Rats, Chem. Res. Toxicol., Vol.13, No.8, 727/735(2000)
  2. M. Ohnishi, H. Yajima, T. Takeuchi, M. Saito, K. Yamazaki, T. Kasai, K. Nagano, S. Yamamoto, T. Matsushima, T. Ishii: Mechanism of Urinary Tract Crystal Formation Following Biphenyl Treatment, Toxicol. Appl. Pharmacol., Vol.174, No.2, 122/129(2001)
  3. M. Ohnishi, H. Yajima, T. Takemura, S. Yamamoto, T. Matsushima, T. Ishii: Characterization of Hydroxy-Biphenyl-O-Sulfates in Urine Crystals Induced by Biphenyl and KHCO3Administration in Rats, J. Health Sci., Vol.46, No.4, 299/303(2000)
  4. 大西, 武, 佐川, 山本,松島: ビフェニル投与により雄ラットの膀胱内に認められた結石の成分分析,衛生化学, Vol.44, No.4, 256/263(1998)

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